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子守

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 あれは、彼じゃない。
 あれは、僕だ。
 神に選ばれなかったのは、僕の方だ……。

   ○●○   ●○●   ○●○

 気付けば、僕は鉄道に乗っていた。どうやってここまで来たのか。記憶はおぼろだった。ただ、頬に一度涙が流れてそれが乾いた後の、引きつるような線があるのが感じられた。
 車窓の向こうを流れる景色は、だんだんと民家の少ない、淋しいものへと変わっていく。僕はこの景色に見覚えがあった。
 どうやら、姫水谷方面へ向かう汽車のようだ。いつの間にか握っていた切符も、姫水谷の駅辺りの料金が表示されている。
 姫水谷に、行こうとしていたのだろう。
 我にかえった今も、何故だか、姫水谷に行きたくてたまらない。
 姫水谷でうっかり眠り、そのせいで雨に濡れ、風邪までひいたというのに。それだけでない。あの時の夢、アレは危険だと、頭の片隅では理解していた。それなのに僕は、姫水谷に行きたかった。
 汽車が止まる。足元が揺らぐ。僕はおぼつかない足取りで駅に降りた。駅が無人で、本当に良かった。
 舗装されず、一歩足を引きずる度に砂埃を立てる道。のろのろと歩きながら、僕は笑った。
 何て馬鹿なんだろう。
 何て愚かなんだろう。
 何て傲慢だったんだろう。
 何が、「きみのえがだいすき」だ。
 自分が優位に立っていると錯覚して、その砂糖菓子みたいに甘くて脆い自信の上に立ち、そう言って余裕を見せたかっただけなんだろ?
 僕なんて、独自性の欠片も無い。ただ与えられたものを、そっくりそのまま飲み込んだだけ。皆が喜ぶような題材を、皆が喜ぶような構図で、筆致で、色遣いで、つくってみせただけ。
 それなのに、彼が僕に劣ってるだって?
 笑っちゃうよ。
 砂が目に入って、ぼろぼろと再び涙をこぼし始めた頃、ようやくアーチ状になった緑の前にたどり着いた。
 「きすいこく」。「ひめみずだに」。もしくは「ひめみずのたに」。どれでもいいよ。僕にはどれも同じだ。
 姫水谷に着くと、僕の足は少し力を取り戻したようだ。どうにか引きずらずに足を運び、僕は奥へ奥へと進んだ。
 姫水谷の内部の地図など、もともと無い。それでも記憶にある風景をたどって、ただ一箇所を目指した。あの子守唄を目指した。
 あの唄が、聞きたい。
 ただそれだけを思って、歩いた。
 歩きにくい革靴が傷付こうと、枯れ始めた枝に腕を引っかかれようと、姫川を渡り損ねて足を水に浸そうと、気にしていられない。
 どのくらい経ったろう。何度も同じ場所をめぐった後、枝の壁に行き当たった。
 僕は歓喜し、僅かな隙間をくぐろうとしたが、疲れきった身体が巧く動かない。もどかしいが、焦れば焦る程、木に寄生する蔦が手足に絡まる。
 ポケットから鉛筆を削る小刀を出して蔦を切り、やっとの事で通り抜ける。この前と全く変わらない姿の、あの広場に出た。
 他の木々は、僅かではあるが紅葉が進んだというのに、ここだけは全く変わらないのだ。木々も、草花も、青青としている。
 僕は、以前眠った木の根元に腰を下ろした。そして目を閉じ、深呼吸をした。むせ返るような緑の匂いの中、あの花の香を探した。
   ――眠れ
 あの花の香がした。あの声がした。
 あの声は、以前と違う調べを紡ぐ。
   ――眠れ
    ――私は其方
     ――其方は私
      ――眠れ
 いいよ、別に。
 たとえ君が、人を喰らう樹の精だとしても。僕を眠らせてくれるのなら、甘い砂糖菓子の自尊心と優越感の中に帰してくれるなら、かまわない。僕を養分としてくれ。
      ――眠れ
       ――其が肉は我が肉に
        ――其が血液は我が血液に
         ――眠れ
 視界の端に、真珠色の裳裾が映った気がした。
 僕は安堵の息を吐くと共に微笑み、ゆっくりと目を閉じた。


            〈了〉 
作品名:子守 作家名:一条 千智