子守
あれは、彼じゃない。
あれは、僕だ。
神に選ばれなかったのは、僕の方だ……。
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気付けば、僕は鉄道に乗っていた。どうやってここまで来たのか。記憶はおぼろだった。ただ、頬に一度涙が流れてそれが乾いた後の、引きつるような線があるのが感じられた。
車窓の向こうを流れる景色は、だんだんと民家の少ない、淋しいものへと変わっていく。僕はこの景色に見覚えがあった。
どうやら、姫水谷方面へ向かう汽車のようだ。いつの間にか握っていた切符も、姫水谷の駅辺りの料金が表示されている。
姫水谷に、行こうとしていたのだろう。
我にかえった今も、何故だか、姫水谷に行きたくてたまらない。
姫水谷でうっかり眠り、そのせいで雨に濡れ、風邪までひいたというのに。それだけでない。あの時の夢、アレは危険だと、頭の片隅では理解していた。それなのに僕は、姫水谷に行きたかった。
汽車が止まる。足元が揺らぐ。僕はおぼつかない足取りで駅に降りた。駅が無人で、本当に良かった。
舗装されず、一歩足を引きずる度に砂埃を立てる道。のろのろと歩きながら、僕は笑った。
何て馬鹿なんだろう。
何て愚かなんだろう。
何て傲慢だったんだろう。
何が、「きみのえがだいすき」だ。
自分が優位に立っていると錯覚して、その砂糖菓子みたいに甘くて脆い自信の上に立ち、そう言って余裕を見せたかっただけなんだろ?
僕なんて、独自性の欠片も無い。ただ与えられたものを、そっくりそのまま飲み込んだだけ。皆が喜ぶような題材を、皆が喜ぶような構図で、筆致で、色遣いで、つくってみせただけ。
それなのに、彼が僕に劣ってるだって?
笑っちゃうよ。
砂が目に入って、ぼろぼろと再び涙をこぼし始めた頃、ようやくアーチ状になった緑の前にたどり着いた。
「きすいこく」。「ひめみずだに」。もしくは「ひめみずのたに」。どれでもいいよ。僕にはどれも同じだ。
姫水谷に着くと、僕の足は少し力を取り戻したようだ。どうにか引きずらずに足を運び、僕は奥へ奥へと進んだ。
姫水谷の内部の地図など、もともと無い。それでも記憶にある風景をたどって、ただ一箇所を目指した。あの子守唄を目指した。
あの唄が、聞きたい。
ただそれだけを思って、歩いた。
歩きにくい革靴が傷付こうと、枯れ始めた枝に腕を引っかかれようと、姫川を渡り損ねて足を水に浸そうと、気にしていられない。
どのくらい経ったろう。何度も同じ場所をめぐった後、枝の壁に行き当たった。
僕は歓喜し、僅かな隙間をくぐろうとしたが、疲れきった身体が巧く動かない。もどかしいが、焦れば焦る程、木に寄生する蔦が手足に絡まる。
ポケットから鉛筆を削る小刀を出して蔦を切り、やっとの事で通り抜ける。この前と全く変わらない姿の、あの広場に出た。
他の木々は、僅かではあるが紅葉が進んだというのに、ここだけは全く変わらないのだ。木々も、草花も、青青としている。
僕は、以前眠った木の根元に腰を下ろした。そして目を閉じ、深呼吸をした。むせ返るような緑の匂いの中、あの花の香を探した。
――眠れ
あの花の香がした。あの声がした。
あの声は、以前と違う調べを紡ぐ。
――眠れ
――私は其方
――其方は私
――眠れ
いいよ、別に。
たとえ君が、人を喰らう樹の精だとしても。僕を眠らせてくれるのなら、甘い砂糖菓子の自尊心と優越感の中に帰してくれるなら、かまわない。僕を養分としてくれ。
――眠れ
――其が肉は我が肉に
――其が血液は我が血液に
――眠れ
視界の端に、真珠色の裳裾が映った気がした。
僕は安堵の息を吐くと共に微笑み、ゆっくりと目を閉じた。
〈了〉