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子守

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「だいたい、お前、普段から『古典に学べ』だの、『デッサンの訓練をしろ』だのと、煩かったじゃないか。今回はほら、『古典に学んで』やった。」
「なるほど、道理で遠近感が狂ってないわけだ。」
「…………。」
 彼は僕に一瞥をくれただけで何も言わなかった。
 彼はいつも、大胆な構図に、無茶苦茶な題材、狂った遠近感に、荒っぽい線で絵を描く。そして、それをコンクールに出品する度に叩かれていた。
 それでも彼は、「遠近線なんか引いてられるか」とか「下書きは手を抜いて構わない」と言ってはばからなかったのだ。「大切なのは、そんなものじゃない」と言って。人の何倍もの量の下書きやモチーフを描きながら。
「一体、どういう風の吹き回しなのさ?」
 僕が問うと、彼はちょっと目を伏せた。その一瞬、彼が淋しそうに見えたのは見間違いだろうか。
「聞いたか? 前のコンクールの評価。」
「粗雑、乱暴、稚拙。」
「よく知ってるじゃないか。ついに二字熟語三つで表されるまでに落ちぶれたようだ。」
「君の場合、落ちぶれるも何も、一度もコンクールで高い評価を得た事がないだろう?」
「良く知ってるじゃあないか。せっかくだから、殴られる気分も知っておいたらどうだ?」
 とんでもない、と僕は一歩彼から離れた。
 すると、彼はようやく、笑った。少しだけだったけれども。
「でも、僕は君の絵が好きだ。」
「あれだけの賛辞を独り占めする天才児が、何を言いだす。」
「うるさいな、それ、嫌味?」
「それはお前の方だろうが。」
 まさか、と言おうと口を開きかけたが、彼の目がどことなく殺気立っている。僕はおとなしく口を閉じた。
 そして、それを誤魔化すように、僕は彼の絵を眺めた。
 どんなに先人の絵を真似ようと、本人の性質は隠しきれていない。最初見た時は、古典的な描き方に幻滅したが、よくよく見れば、細部に彼らしさが顔をのぞかせている。
「技術なんて、練習すれば幾らだって身に付くだろう? 君の絵の何が悪いって、それ以外にはあり得ないよ。だから、今回はいつもより完成された感じがする。」
 僕はうっとりと、彼の絵をなぞるようにして、指で宙に遠近線を描いた。
「つまり、君の悪評の原因は、まともな描き方をしないって事だけだよ。」
 彼は呆れたように僕をじっと見た。
「……それはお前だから言えるんだ。お前の線の緻密さ、正確さ、それらに基づく表現力。誰もが欲しがっている。」
「ありがとう。世辞でも嫌味でも、嬉しいよ。」
 彼は渋面でそっぽを向いた。僕は耳が良い。小さな舌打ちの音を聞き逃さなかった。
「誰が何と言って貶しても、僕は君の絵が好きだよ。……だいすきだ。」
 僕は彼の絵に目を細めた。力強い線で構成され、空白すらも、ものを言う。画面の隅、暗い部分へ行けば行く程、彼らしい渾沌とした筆致が現れてくる。
 僕はふと、画面の左下隅、学生達の群像の手前に、惹かれた。
 羊が一頭、横たわっている。
四肢は一つに縛られ、画面の隅に追いやられ、忘れられた様に横たわっている。
 その虚ろな黒の瞳が、こちらを見つめている。ただ、静かに。
 犠牲は既に壇上にある。この無造作に床に転がる羊を、誰も顧みたりしない。
この羊は、何の為にこうしているのだろう?
 次の犠牲がこれなのだろうか。しかし、それならば壇上になければ意味が無い。
 この羊は、一体何をその瞳に映し、何を意味しているのだろう……?
「――どうした?」
 突然、彼の声が聞こえ、僕は一気に現実に引き戻された。
 僕は微笑んで首を振った。何でもない。ただ、視線が刺さるのだ。たとえ、目を逸らしても。
「これは、何の意味が……?」
 僕は、羊を指して言った。指も唇も、何故だか細かく震えていた。それでも、訊かずにはいられなかった。
 彼は僕を見なかった。それどころか、イーゼルからも目を逸らし、呟いた。
「それは、俺。」

   ○●○   ●○●   ○●○

 画材を抱えて家を出て、学校とは反対方向の鉄道に乗った。汽車の中で、言い訳を幾つか考えていたが、途中で止めた。先生方も、僕の無断欠席には慣れた頃だろう。
 行き先は、特に考えていなかった。だが急に、あの「姫水谷」を見てみたくなった。あのラフスケッチは、本当に見事だったから。
 違う。彼の絵がそうさせた。彼の絵に匹敵するには、あのラフスケッチの力を借りねばならない、そんな気がしたから。
 「無賃乗車大歓迎」と言わんばかりの、無防備な無人駅で降りた。そこが、「姫水谷」の最寄の駅なのだ。
 周囲に三階以上の建物など見当たらなかった。駅から、刈り入れなどとうに終わった田畑が見渡せる。その向こうには、赤と緑と黄色の混じった稜線が幾つも連なっている。そのうちの二つに挟まれて、青味がかった緑色の塊が見えた。あれが、「姫水谷」だろう。

   ○●○   ●○●   ○●○

 むせ返る様な木々の匂いで肺を満たし、ゆっくりと息を吐いた。葉はもう色付き始めたというのに、驚くほど濃い緑の匂いだった。
 見渡すと、そこかしこに幅一m程の、小さな川が流れている。それぞれには名は付いておらず、まとめて姫川と呼んでいるそうだ。この川が「姫水谷」の名の由来だろう。そして、姫川はこの森の東端で合流し、更に東に流れて大河に注ぐという。
 柔らかな苔の絨緞の上を歩き、清らかな水の小川の下を覗き込む。冬眠の備えをし始めたのか、頬を大きく膨らませたリスにも遭遇した。その後も、野うさぎなどの小動物に何度か会った。
 最初は物珍しくて、クロッキーなどもした。だが、これだけ無用心に姿を現すのはおかしい、という事に気付いた。多分、ここにはあまり人が入らないのだろう。
「綺麗なとこなのになぁ……。」
 僕は誰にともなく呟き、素直にため息をついた。
 こんな綺麗なところに、誰も来ないのが不思議でたまらない。
 逆に、あのラフスケッチの描き手、あれだけの画力を持つ人が、ここを選んだのは肯ける。あの絵具箱の主が地図を箱に残したのは、誰かにここを教えたかったのかも知れない。
 しばらく歩き回っていると、枝が混んで壁のようになったところに行き着いた。何となくその向こうを知りたくて、巧く隙間を見つけて通り抜けた。すると、急に開けたところに出た。
 その木立を見るや、僕は慌てて鞄をひっくり返した。
 汚い折り目の付いた紙が数枚と、スケッチブック、クロッキー帳、折りたたみ式の小さなイーゼル、その他諸々。教科書や筆記帳は入れていない。もともと写生に出掛けるつもりだったのだから。
 スケッチブックを開けて、そこに挟んであった紙を取り出した。絵具箱の前の主の、スケッチ。それと風景とを、よくよく見比べる。
 枝の混み具合や、生えている草花は少し違ったが、確かにこの場所だった。
 それと分かると同時に、ちょっとした悪戯心とも敵愾心とも付かない感情が湧いてきた。
 僕は、立ち上がってイーゼルを組み立てた。スケッチブックの白いページを開けて、そこに置く。
 さぁ、はじめようか。
 僕は鉛筆を軽く握り、深呼吸する。……いや、しようとした。
 僕は、肺を満たした甘く強い香りに驚いて、息を止めてしまったのだ。
作品名:子守 作家名:一条 千智