初恋
ある日のこと、昼休みにかじかんだ手を彼女の首筋に当てたりしてふざけながら教室に戻ると、1人の友人の周りに神妙な表情で数人が集まっている。人垣の間からそっと覗いてみると、輪の中心にいる子は泣いているようだった。
少し離れたところで漏れ聞こえる話を聞くところによると、どうやら1つ年上の彼氏に受験を理由に振られたらしい。みんなは口々に慰めの言葉をかけているようだ。
私はその様子をひどく冷めた気持ちで眺めていた。
もうすぐ次の授業が始まるのにとか、こんな人前であんなに泣き崩れて恥ずかしくないのだろうかとか、相手が受験生ならこうなるのは覚悟していて然るべきなんじゃないかとか、そもそも1人の人間のことでそこまで感情を乱すのはどうなんだとか、そんなことを考えていた。
そして、他の子たちが親身になって話を聞いているのを見て、本当はああいうのが正しい姿なんだろうかと思い至った。彼女達が正常で私が異常なのだろうか。私の心は死んでいるのだろうか。自分が誰かのことであれほど気持ちを乱すところなど想像も付かない。
沙紀は、沙紀はどうなんだろうか。正面に座る彼女の表情を覗き込もうとすると、予鈴が鳴り彼女は一言、戻るねというと自分の席に向かってしまった。
私の考えていたことを知ったら酷い奴だと思われるだろうか、彼女と親しくなってから初めて、素の自分を見せることが戸惑われた。
帰りに私の家に誘うと沙紀は二つ返事でやってきた。玄関に上がると沙紀は慣れた様子で真っ直ぐに私の部屋に向かい、私は台所に飲み物を取りに寄ってから自室に向かう。
鞄を置き、一口のどを潤してから、今日の出来事について切り出した。
「なんか今日すごい泣いてたね」
「ああ、凄かったね」
「私にはよく分からないんだけど、彼氏に振られたらあんなに取り乱すものなの?」
「どうだろ。人によるんじゃない?あれは、大げさな気もするけど」
苦笑しながら彼女が返した答えは答えとは言えないものだった。一般論で話すからいけないのだ。じゃあ、と今度は訊き方を変えてみた。
「沙紀は好きな人とうまくいかなかったことってあった?」
いきなり自分の話になったからか、私が恋愛話を持ち出したからか、驚いたように目を見張った後、少し考えてから答えてくれた。
「そりゃ、あったよ」
「そのときって泣いたりするもんなの?」
「うーん。まあ、泣いたかなあ。一人でこっそりとだったけど」
「そっかあ。自分のこととなると全く想像が付かないな。
私このまま一生好きな人もできないんじゃないかって思えてきたよ」
また苦笑しながら飲み物に口をつける彼女に私は更に続けた。
「ねえ、恋って何?好きになるってどういうこと?」
私の質問に彼女はグラスに口をつけたまま考え込む。
「難しい質問だね。口ではうまく説明できないよ。きっと人によって違うんだろうし」
ああ、また「人による」か、と思っていると、まだ続きがあった。
「でも、私の場合だけど、好きな人とは一緒にいれたら嬉しくて、どきどきして、
どれだけ一緒にいても足りないって思うかな。会えないときは凄く寂しかったり」
彼女の少し顔を赤らめて照れたように言うその表情は間違いなく「コイバナ」をしているときの友人達と同じものだった。何故か沙紀が遠く感じられた。
「奈緒もそのうち好きな人ができたら分かるよ」
「そのうちっていつ?私に好きな人ができるかなんてわからないじゃない」
何故か物凄く彼女の言葉に反発したくなった。
今現在恋をしているあなたと私は違うんだ。そう簡単に言ってくれるな。
そんな気持ちがふつふつと湧いてきたのだ。完全に駄々っ子だ。自分の子供っぽい言動に後悔しながら彼女の顔を恐る恐る覗いてみると、眉をひそめ、酷く寂しそうな顔をしていた。
「ごめん」
そんな顔の彼女は見ていられず、顔を背けながらすぐに謝罪する。
と、肩を柔らかなもので包まれた。それが彼女の腕だと気付いたとき、彼女は震える声で話し始めた。
「もし、奈緒にいつまでも好きな人ができなくても、私はずっと奈緒の傍にいるから。
みんなと一緒じゃなきゃいけないわけじゃない。恋人がいなくたって楽しいよ」
彼女の言葉を聞いて私は小学校低学年のとき以来、初めて人前で涙を流して泣いた。本気で彼女の言葉全てを信じたわけじゃない。でも一度突き放した私に、そう言ってくれた気持ちが嬉しかった。一生とは言わない。だけど、彼女と一緒にいられる日が少しでも長く続けばいいと思った。
しかし、その終わりの日は予想以上に早く訪れた。