深海ネット 後編
ネット心中計画の件ですが、白紙に戻したいと思います。河野さんもニュースでご覧になりましたでしょうか?ジョージさんのことです。あの打ち合わせの後、彼から「この計画は二人で決行したい」「また新宿で打ち合わせしよう」とのメールが来てから、私は彼のことを不信に思い、メンバーから抜けてもらうように返信しました。すると彼は私に連絡をしなくなり、「心中掲示板」で新たな呼びかけをしていたみたいです。結果的に、その呼びかけに応じた人が悲惨な目に合ってしまいました。
本当ならば、私が彼に殺されていたはずだったのに。私のせいで、また誰かが不幸になってしまったのです。もう耐えられません。私はやっぱり生きていても仕方ない存在だったのです。
ネット心中という手段を選んだのが間違いでした。私が呼びかけたことで、河野さんも振り回してしまいましたね。ごめんなさい。私は死ぬときも一人でなければいけなかったみたいです。
追伸。
先ほどの電話、きっと河野さんですよね。このメールを書いているときに、電話が鳴りました。なんとなく、貴方だった気がしたのです》
メールを読み終えた後、すぐに返信ボタンを押してメールを書いた。
《レイカさんへ
何故そんな風に思わなくてはならないのですか。ジョージの事件で殺された女子高生は、すごく不幸だったと思います。でも、それはレイカさんのせいでも何でもないじゃないですか。レイカさんが不幸にしたわけではないですよ。悪いのはジョージです。
そんなに自分ばかり悪いと思うことは全然無いように思うのですが》
慰めたかったのだろうか。そう自問しても、答えを生み出せない。けれど、レイカへの返信を書いていたときの俺は、確かに無我夢中だった。焦りを感じていた。レイカに、なんとかして一刻でも早く自分の言葉を届けたかった。余計なことをしたのかもしれない、という不安もある。でも、俺は自分ができることをがむしゃらに探していた。
それから数日、俺はレイカの返信を待つだけの人間になっていた。起きてから寝るまで、レイカからメールは無いかとチェックするだけの日々。必ず返信が来るという保障もまるでないのに、何をしていてもそのことばかりが頭に浮かんでくる。
そして、やっとレイカからメールが来た。
《河野明様へ
レイカです。
この間のメールになんて返せばいいかわからず、日にちだけが経ってしまいました。
河野さんが書いてくれたことは嬉しかったのです。でも、私はその優しい言葉に甘えて、自分自身を許すわけにはいかないのです。
私の住んでいる地域は、今日気温が一桁まで下がりました。睡眠薬でも飲んで凍死できる日も近いでしょう。一人で死ぬなら、凍死が一番確実なはずです。時期が遅れるのはつらいですが……。
河野さんも、望んだ通りに安らかに逝けることを心から願っています。
ありがとうございました。
そして、さようなら》
すぐさまレイカの携帯に電話をかけた。今までのように、迷うほどの余裕は心の中に無かった。しかし、電源が切れているのか圏外なのか、それとも着信拒否されているのか、何度かけてもつながらない。
いてもたってもいられない。俺はいつものチャットルームへと飛んだ。まだ会社員が入室するには早い時間だが、そんなことはもはや全く気にならない。ずっと入室したまま、いち太郎が来るのをひたすら待った。いち太郎が何時ごろに来るのかはわからないが、いつも誰よりも早くからここへ来て、みんなを待っているのは間違いなかった。
「あれれ、社長、今日はえらく早いんだねぇ」
三十分くらいして、いち太郎がやってきた。予想よりは早い登場だった。
「今日、いち太郎が住んでいるところって気温が一桁まで下がったか?」
俺は挨拶も説明も無いまま、いち太郎に質問を投げつける。
「え、どうしたの?急に」
「ちょっと必要な情報なんだ」
「確かに、今日は初めて一桁になったよ」
「いち太郎が住んでいるのって、北海道だよな?」
「うん、そうだよ」
「北海道って言っても広いだろ。一桁まで下がった地域ってどの辺なんだ?」
「うーん、僕もよくわからないな。でも、少なくとも札幌はそうだよ。僕が住んでいる地域だから間違いないよ」
「そうか」
札幌に行きたい。そんな気持ちが強く芽生える。
「どうしたの?」
さすがにいち太郎も不信に思ったのだろう。困ったような顔文字を添えて訊いてくる。
「札幌に行くよ」
「えーっ!」
「できるだけ近いうちにな」
「なんで?こっちはもう寒いよ」
「人に会いに行こうと思う」
「へえー。社長、札幌にも知り合いいるんだね」
知り合い、なのだろうか。俺とレイカの関係は何と呼べばいいのだろう。心中仲間?共犯者?いや、レイカが一人で死のうとしている今となっては、俺は彼女にとって何の関係も無い人間であるはずだった。それなのに、俺はレイカに会いに行こうとしている。
「あ、会社関係の人なのかな?」
「そんな感じだな」
「そっかあ。来るときは教えてね!」
「ああ、わかったよ」
「なんだか、そんな焦っている社長って珍しいね」
いち太郎はにっこりとした顔文字を添えて言った。
焦りを感じている自分に、何よりも俺自身が驚いている。自分以外の誰か、しかも一度しか会ったことのない女に、こんなにも気持ちを揺さぶられている。これは、かつて舞子に抱いたような恋愛感情なんかとは全く別物だ。そんな単純なものでは無い。自分でも理解できていないような、心臓の内側から突き動かされるような衝動が生まれているのだ。
レイカに死んでほしくない。その気持ちひとつが、もうこの先出会うことないと思っていた行動力を俺に生み出している。レイカが死にたがっていようが、関係ない。俺はレイカに死んでほしくない。レイカはまだ死ぬべきじゃない。だから、俺はレイカに会いに行く。レイカが北海道に居るのは間違いなかった。とりあえず札幌に行けば、何かが変わるかもしれない。いや、変えられるはずだ。その希望に縋ることしか、今の俺にはできない。
「金貸してほしいんだけど」
いきなりそう切り出すと、さすがに母親は怪訝な顔をした。
「何言ってるの?」
「どうしても必要なんだよ」
「何に使うわけ?」
「ちょっと旅行に行く」
母親は嘲笑う。
「どうしたの。そんな急に」
「金なら返すから」
「そんなこと言って、あなた返すあてなんか無いでしょう」
「働く」
母親の表情が苦笑いで固まる。さすがに信じられないと言わんばかりだ。
「働くよ」
もう一度強く言った。
「なんで」
「だって、それしか金を稼ぐ方法無いだろ」
「でも、なんでそんないきなり」
「文句無いだろ。働くなら」
「それはそうだけど」
「じゃ、決まりな。とりあえず、札幌まで行って帰ってくるだけの分があればいいから」
母親の返答は聞かずに、部屋に戻った。
本当に働こうとしているのか、正直言ってあまり自信は無い。しかし、俺の中で「働く」という選択肢がかすかに見えきていた。札幌に行くには、どうしてもお金がいる。しかも安くはすまない距離だ。今まで絶対に無かった考えが、俺のなかで生まれ始めている。間違いなく、レイカの力が作用していた。