深海ネット 後編
5.捜索
「心中掲示板」が消えていた。ジョージが書き込みした掲示板として、警察の調査が入ったのだろうか。それとも、2ちゃんねるにでも晒されて、管理人が閉鎖したのだろうか。わからないが、殺人事件の引き金となった掲示板になんか未来は無い。
全く眠れずに、夜が明けてしまった。いつも日が昇るころには眠りにつくはずが、昨夜はいくら眠ろうとしても、頭の中が活発に動きすぎて全く駄目だった。ベッドにいても仕方がないので、ずっとパソコンの前に座っている。最初に「心中掲示板」を訪れてみたものの、ジョージの書き込みどころか掲示板自体が見ることができなかった。
事件の詳細が気になる。しかし、いち太郎が教えてくれたサイトは、ジョージの写真を見たきり一度も開いていない。あのサイトをもっと詳しく読めば、細かい情報もわかるだろう。もしくは、居間に行ってテレビでも観れば、嫌でも事件のことが流れてくるはずだ。
でも、どうしようもないくらい気になっているが、事件のことを知るのは怖い。犯人は、ジョージ。それはもう紛れも無い事実だ。俺が気にかかっているのは、殺されたという女子高生の方だった。レイカと連絡が取れなくなってから、かなりの時間が経っている。まさか、とは思う。しかし、被害者の顔写真を俺はまだ見ていないし、あの日会ったレイカは女子高生の年代で間違いなかった。すぐにそこをイコールで結び付けてしまうのは、あまりにも短絡的すぎるかもしれない。でも、嫌な予感が俺の中で渦巻いている。レイカは死にたがっていた。でも、それは自殺願望からくるものであって、他人に騙されて死ぬなんて不本意なはずだ。テレビやネットで被害者の顔を確認すれば済むことだが、それをするのが怖かった。そこにレイカの姿を見つけたら、俺はどうしようもない虚脱感に襲われそうな気がする。
メールチェックをしてみる。新着メールは無かった。一体何を期待しているのだろう、と馬鹿馬鹿しくなる。しかし、気がつけば以前よりまめにメールチェックをしている自分がいて、何も無いたびに落胆した気持ちになっていた。
レイカから貰った過去のメールを読み返してみた。いつ見ても、無感情な文面。この言葉たちから、レイカの心の中を探るのは不可能だ。もしかしたら、レイカは意図的に感情を出さないようにしているのかもしれない。そんなことすら思わせる。
そしてあの打ち合わせの直前のメールに行き着いた。赤いコート。その言葉だけで、駅に立っていたレイカを鮮明に思い描かれる。ふと、そのメールの最後に添えてあるレイカの連絡先が目に付いた。携帯番号と、携帯メールアドレス。この二つは、既に俺の携帯電話に登録してあるはずだ。
床の上に投げ出してあった携帯を手にする。電話帳の画面にして、「レイカ」と登録してあるページを開いた。この番号を押したら、レイカにつながる。そう思うと、携帯を持つ手がわずかに震えた。
ぼんやりと考えを巡らせていたら、いつものチャットの時間になっていた。
「昨日は何も言わずにいきなり退出しちゃってビックリしたよ」
入室して早々、いち太郎に言われた。昨日はあのサイトを見て、動揺してすぐにパソコンをシャットダウンした。チャットの最中であったことなど、すっかり忘れていたのだった。
「ごめんごめん、回線がおかしかったんだ」
「それなら仕方ないよねぇ。アタシもよくあるよぉ」
「私もたまにありますよ」
「てっきりあの事件に衝撃受けすぎたのかと思ったよー。なんてね」
いち太郎のやつ、なかなか鋭い。
「まさか。そんなわけないだろ」
「だよねぇ」
「あはは。今日の僕、部屋の中が寒くて思考回路がおかしいから気にしないで」
「いち太郎さんは北海道の人でしたっけ?」
「うん。もうすぐ気温も一桁になるんじゃないかな」
「そんなに寒いのぉ?まだ秋なのにぃ」
「ミミとは距離があるからなあ」
チャットの画面を見ていても、会話の流れが頭に入ってこない。俺の頭の中は、事件とレイカのことで占められていた。
チャットを退室してすぐ、レイカの携帯に電話をかけた。こういうのは、勢いまかせに限る。少し間を置いて、呼び出し音が鳴り始めた。この携帯がまだ使われていることを知ったことだけでも、わずかな安堵感が生まれた。呼び出し音はしばらく鳴り続けている。やはり、電話が使えるだけで、レイカはもう……。
諦めてそろそろ電話を切ろうかと思ったとき、呼び出し音が止まった。
「もしもし」
電話の向こうから、声がした。か細くて聞き取りにくい声だったが、間違いない。レイカの声だった。
「……」
声が出ない。レイカの声を耳に感じて、その余韻が残る。向こうが電話に出たその先を考えていなかった。何を話せばいいのだろう。
「もしもし?」
レイカの声が少し大きくなる。それでも、どこか弱弱しい。なんだか、今の今まで泣いていたかのようだった。
俺は何も言わずに電話を切った。レイカの無事が確認できただけで何よりだった。
変だな、と思う。レイカには自殺願望があって、俺も人生を終わりにしたいと思っている。一緒に死ぬかもしれなかった仲だ。ましてや、俺はレイカを自殺の「道具」として利用しようとしていた。それなのに、俺はレイカが生きていたことを知って胸を撫で下ろしている。
長い間、携帯を握りしめたまま、ベッドに腰掛けていた。体がだるくて、立ち上がるのも億劫になっていた。
すると、いきなり手の中の携帯が震えた。着信が来ている。誰かと思えば、レイカだ。きっと自分の着信履歴に残った俺の番号を辿ったのだろう。どうしようかと携帯をしばらく見つめていたが、なかなか鳴り止む気配が無い。とりあえず、無言で電話を取ってみる。
「もしもし」
レイカの声がする。返事をするべきかわからず、俺はしばらく黙っていた。
「……河野さんですか?」
「!」
思わず息を呑んだ。バレている。何故だ。どうしてわかったのか、今すぐにでも訊きたかったが、声を出せば肯定することになってしまう。俺は更にだんまりを決め込むことにする。
「誰でもいいんです。河野さんでも、誰でも」
「……」
電話の向こうのレイカは、呼吸が荒い。今にも泣き出しそうだった。あの無表情の人形のような顔が歪んでいくのを想像する。それは、滑稽である以上に、ひどく痛々しいものだった。
互いにしばらく無言の時間を共有していた。声はしなくても、電話の向こうには確かに人がいる。レイカがいる。不思議な感覚だった。わずかに聞こえるレイカの息が、なぜか俺に落ち着きを与えている。レイカはこの通話の中、一体何を思っているのだろう。
ぷつりと通話が切れた。もうレイカの声の呼吸も聞こえない。何か話をするべきだったのだろうか。
電話を切られてから少しして、予想外のことが起きた。レイカからメールが来ていたのだ。一時間ごとのメールチェックはもはや習慣になっていたが、もうレイカからのメールが来ることはないだろうと思っていただけに、その衝撃は大きい。そして、そのメールは、今までのように簡潔で短いものではなかった。
《河野明様へ
レイカです。
パソコンが壊れていて、メールがしばらく送れませんでした。