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深海ネット 前編

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3.進展



 父親が帰ってきた。居間のソファに腰掛けている後姿を、キッチンからそっと覗いてみた。また白髪が増えたように見えるが、そんなことどうでも良かった。顔を合わせた瞬間、何を話せばいいのか。そのことばかり、考えていた。
 気配を感じたのか、ふいに父親が振り向いた。俺は隠れる間もなく、しっかりと目を合わせてしまう。
「どうだ、仕事の方は」
 威厳ある重低音が響き、一気に居間の空気が変わる。第一声からそれかよ。始まったばかりの会話に、もう既にうんざりする。返答する前に、傍にいた母親をちらりと横目で見た。母親は、必死に懇願するような目でこちらを見ている。
「まあ、うまくやってるよ」
「今日は休みなのか」
「あ、ああ。土曜日だから」
「そうか。でも、いくら休日だからって髭くらい剃らんか。だらしない」
 そう言って、父親は顔を戻した。顎を撫でてみると、一昨日から伸ばしっぱなしの髭がざらつく。とても一日で伸びる長さではない。しまった。バレたかと思ったが、父親はもうそれ以上何も言わず、黙ったまま新聞を広げている。とりあえず、難は逃れたらしい。洗面台に向かおうとして、母親とすれ違う。鋭い目で、睨まれた。俺が犯した些細なミスに、気が気じゃなかったのだろう。ちゃんとしてよ、と目が訴えている。無性に腹が立った。息子が無職を貫いていることを旦那に隠し通したがる奴になんか、睨まれる筋合いなど無い。
 怒りにまかせて髭を剃っていると、剃刀で顎を切ってしまった。一筋の血が流れ、ぽたぽたと落ちていく。白い洗面台が、赤く染まる。
 そうだ、俺はもうすぐ死ぬんだっだ。こんな思いをすることも、もうないのだ。季節が変わるころには、もう俺はいない。そのときに、父親も母親も、俺の存在の大きさに気づけばいい。気づいて嘆けばいい。血の流れを黙って目で追いながら、強く思った。

 部屋に戻り、つけっぱなしだったパソコンの前に座る。レイカからメールが来ているはずだった。打ち合わせは、明日なのだ。

《河野明様へ
 レイカです。
 明日は、午後三時に××駅で待ち合わせにしましょう。
 私は赤いコートを着て行きます。それを目印にしてください。》

 簡潔で、用件のみが書かれてある。レイカらしい文面だ。メールの文末には、当日何かありましたらこちらまで、と携帯電話の番号とメールアドレスが記されてある。使うことは無さそうだが、俺はそれを自分の携帯に登録した。
 いよいよ、ネット心中の計画が動き出す。恐れや後悔は感じていない。むしろ、もう明日にでも決行したいくらいだ。俺なんて、いつ消えてやっても構わない。俺からつながるものなんか、この社会には無い。父親だって、母親だって、仕事だって、共に学生時代を過ごした仲間だって、舞子だって。今となっては全部、俺から完全に切り離された存在になっている。
 レイカから来たメールを、もう一度眺めてみる。すぐにどこへでも連れ去ってくれるような気がした。もし、俺でもこの世の中につながっているものがあるとしたら、それはこのパソコンの向こう側だけなのかもしれない。いち太郎、ミミ、そして新入りのわかば。自分を偽っているとはいえ、毎夜のように会話をしているこの三人。そして、レイカ。俺を楽に死ねるように、導いてくれる存在。
 パソコンをシャットダウンする。画面が暗くなるのと同時に、俺はまた一人きりになる。まだ日が暮れて間もない時間帯だが、ベッドに入り込んだ。夕飯はいらなかった。父親と母親と俺。三人で食卓を囲む光景など、考えるだけでヘドが出る。目を閉じて、明日のことを考えた。駅で赤いコートを着た想像上のレイカが、頭の中に浮かび上がる。思えば、誰かと待ち合わせをすることなど、どれくらいぶりのことだろう。約束なんか面倒なことだけど、俺はレイカに会うことが少し楽しみになっていた。 

 よく晴れた日曜日となった。昨日は早々と眠ってしまったからか、珍しく午前中に目が覚めた。カーテンを閉めていても、布一枚の向こう側から太陽の光が自己主張する。眩しすぎて二度寝できず、しぶしぶ起き上がる。パソコンの電源を入れて、トイレへ向かう途中に廊下で父親とすれ違った。互いに言葉を交わさない。ただ、昼前にやっと起きてきた俺を捕らえた父親の目には、侮蔑が含まれていた。今日なんて俺にしては相当の早起きだ。しかし、あの父親にそんな事言っても通用するわけがなく、俺はただばつが悪そうな顔を返すしかなかった。
 部屋に戻り、メールをチェックする。新着メールは無い。ということは、今日の打ち合わせは予定通り行われるということか。まだ時間的な余裕はあったものの、早々と家を出ることにした。

 外に出ると、体が陽射しに慣れていないのを感じる。日光ってこんなに強烈なものだっただろうか。服の上からでも、肌にジリジリと当たっていることがわかる。普段、俺が外出するのなんて夜中のコンビニくらいだ。こんな真っ昼間から外にいる自分が妙に不自然で、ふさわしくない気がしてならない。
 電車の中では、人の多さに息苦しさを感じた。他人との距離が近いことが、耐え難い。当たり前のことだが、外には人間がたくさんいるものだなと思う。こんなに人間がいるのだから、一人や二人消えたところで世の中が変わらなくて当然だ。ああもう、早く消えてやろう。意味の無い生活が無駄だ。強い陽射しに照らされることも、混雑した電車へのイライラも、無駄な感情でしかないのだろう。俺がここに立っていることだって、誰も求めていない。俺に関わること、俺の存在、全て世の中にとってはどうでもいいことなのだ。

 駅には、二時半に着いた。早々と待っていても、一人で張り切っていると思われそうでいいこと無い。駅前のコンビニで時間を潰すことにした。やはり日中で駅前ということだけでも、俺が普段行っているコンビニとは空気が全く違う。レジにはずらりと列ができていて、店員もやけにはきはきしていて気味が悪い。雑誌売り場にも既に立ち読み族が何人もいたが、わずかなスペースに体を割り込ませ、適当な青年週刊誌に手を伸ばす。
 読みたくもない連載に一通り目を通して、腕時計に目をやった。まだ二時五十分だ。やけに時間が経つのが遅く感じられる。ずっと時計なんか必要ない生活を送っていたからなのか。それとも、もう何年の埃をかぶっていたこの腕時計の針が狂い始めているのか。大学四年の俺の誕生日に舞子がくれて、それ以来ずっと調整していないものだった。店の時計と照らし合わせ、まだこの腕時計が辛抱強く動いていることを確かめてから、店を出た。
 ふらふらと駅の周辺を歩き回ってみる。同じ空間にいるはずなのに、目の前を歩いているのは、俺とはどこか別の次元にいる人間たちのような気がした。早足で歩いているスーツ姿のサラリーマンも、買い物帰りの家族も、初々しいカップルも、俺とは別世界に住んでいる。そこに、憧れを感じているわけでは無い。自分はもうこういう世界には二度と辿り着くことなく死んでいくのか、と思っただけだ。
作品名:深海ネット 前編 作家名:さり