深海ネット 前編
「だって、なんか変わったなって思って」
「そりゃあね。もう三年経つもの。いつまでも男っぽいなんて言わせられないでしょ」
鼻にかかった声とはきはきした口調、そして笑ったときにできるえくぼは何も変わっていない。少しだけ、ほっとした。
気がつけば、他の六人が俺と舞子の方に目をやり、意味ありげに頬を緩ませていた。俺と舞子の三年ぶりの会話は、他の連中たちの見世物になっていたらしい。こいつら全員、俺と舞子の関係を知っていたから仕方ないのだが、やはりいい気はしない。
ああ、これが見たかったのかと、やっと自分がこの席に呼ばれた理由を察した。
宴会が終わるまで、俺はずっと聞き役に回っていた。集まった人間がそれぞれ、自分の近況を熱っぽく話している。ただそれを聞いているだけだ。話を広げたり、突っ込んだりすることなく、ただ黙って聞いていた。自分の仕事がどれだけつらいか、自分の恋人がどれだけ我儘かなど、後半はほとんど不幸話対決のようだった。聞きたくない話ばかりだったし、どれも俺にとっては自慢にしか聞こえない。まあ、自分に話が振られなかっただけまだマシだった。
舞子も、ほとんど自分のことを話さないまま終わった。俺ともほとんど会話を交わすこと無かった。ただ、俺が未だにをマイルドセブンを吸っているのを見て、「変わらないね」と小さく微笑んだくらいだった。
終電間近になり居酒屋を出ると、気温がぐっと落ちていた。いつのまに、夜がこんなに寒くなっていたのだろうか。ずっと家の中にいるとわからないものだな、と思った。スウェットだけでは、若干肌寒い。やはり、もう少しまともな格好をしてくるべきだった。
「ダメだ。あいつトイレから出てこない」
遅れて店から出てきた片岡が、苦笑いしながら言う。正志が完全に潰れきったらしい。
「どうしよう。終電大丈夫なのかな?」
まだ時間に余裕はあるものの、正志が潰れたらなかなか復活しないのは全員周知の事実である。舞子が心配するのも当然だ。
「昔のパターンでいくと、きっとギリだろう」
「全く、一流企業に行っても変わんねえよな、正志」
「あいつはあいつのまんまだな」
「なんなら、幸田さん、先に帰ってていいよ。俺ら正志待ってるから」
片岡が舞子に言う。
「うん、悪いけどそうさせてもらう。実は明日も仕事なんだ」
舞子の言葉に、胸を突かれる。噂には聞いていたが、舞子の仕事はかなり忙しいらしい。こんな小さい体でも、休日返上であちこち飛び回っているのだ。
気がつけば、俺は舞子を駅まで送ることになっていた。
二十五にもなって、みんなやることが幼い。河野送っていけ、と片岡も南川もうるさかったのだ。バレバレの計らいを絶やさない男たちを前に、さすがに舞子も呆れ顔だった。しかし嫌だとも言えず、結局俺は舞子と並んで歩いている。
「明日も仕事か。日曜なのに大変だな」
「でも、もう慣れたから」
「そっか」
沈黙が訪れる。何を話せばいいのか全くわからない。話すこと、話せることなんか俺には何も無かった。
舞子と別れた日を思い出した。大学の卒業式から一週間ほど経った日、夜中に電話で呼び出され、近くの公園まで出向くと舞子が車を止めて待っていた。
卒業を期に、リセットしたい。実に舞子らしい言い方だと思った。嫌いになったわけじゃない。でも、俺に魅力を感じなくなってきたのは事実だ、と。
俺ももっと足掻けば良かったのかもしれない。しかし、一切こちらを向かず淡々と話す舞子の横顔を見て、完全に終わりを悟らされてしまった。ただ頷くことしか、俺に選択肢は与えられなかったのだ。
「今日さ」
沈黙を切り開いたのは舞子だった。
「来ないと思ったんだよね。明くん」
「そりゃ、こんな集まりあるなんて、俺聞かされてなかったし」
「いや、そういうことじゃなくてさ。肩身、狭いって思わなかったの?」
あまりにも淡々と言うものだから、聞き流してしまいそうになった。
「肩身?」
舞子はこくりと頷いて、口を開いた。それを見た瞬間、その開かれた口から出てくる言葉は、きっと自分を傷つけるものになる、という強い予感がした。
「だって明くん、ニートなんでしょ」
実にさらりと、舞子は言った。予感は的中する。
「知ってたのか?」
「知ってるもなにも、明くんが来る前に正志くんが、河野は今流行りのニートなんだ、って」
全身の力が抜けていくのがわかった。あの場にいる全員、俺がニートだと知っていたのだ。誰も仕事や近況の話を俺に振ってこなかったことも、これで説明がつく。
「みんな会社帰りでさ、スーツとか来て。仕事の話もいっぱいしてたじゃない。よく耐えられたね。私なら無理だわ」
耐えられてなんかいなかった。本当は、早くあの場から消えたかった。でも、目の前にいる舞子にそれを悟られたくなくて、何食わぬ素振りをしていたのだ。しかし、そんなこと全く無駄だった。舞子は俺の現状をとっくに知っていたのだ。
「それにしても驚いた。就職に失敗したのは知っていたけど、さすがにもう二十五でしょ。探せばいくらでも働き口あるし、それなりに働いていると思ってたから」
「……だろうな」
「変わらなさすぎ、明くん」
「でも」
「でも?」
「あいつらだって、変わってなかっただろ」
舞子は笑って首を振った。
「ううん。みんな大学卒業して社会に出てから、やっぱり立派になったと思うよ。正志くんだって、ああやって調子いいところは昔のままだけど、会社では同期を出し抜いて営業成績トップなんだって」
そんな話、初めて聞いた。日本人なら誰でも一度は聞いたことあるような大手メーカーに就職したのは知っているが、あの正志がそんな立場にいるとは。
「でも、あいつ、俺には全然仕事うまくいかないって」
「そんなの、明くんに気遣って話しているだけに決まってるじゃない。彼なりの優しさだよ」
そんな気遣いされるほど、俺は惨めに思われていたのだろうか。
「結婚すると思う、私」
「えっ」
ひどく間の抜けた声が出てしまった。でも、あまりにも唐突にそんなことを話す舞子に、開いた口が塞がらなかった。
「正志くんと同じ会社の同期の人でね。営業成績の話も、その人から」
「……そう」
「彼も頑張っているみたいなんだけどね。正志くんには適わない、ってさ」
「……」
何も言葉が出てこない。俺の一歩先を歩いていた舞子が、立ち止まった。
「だから、きっと明くんと会うのも最後だね。これで」
「そうなのか」
期待していた俺が馬鹿だった。三年ぶりに舞子と会って、ほんの少しだけ、昔のように戻れるような気がしていた。やはり期待なんかするだけ無駄なものだ。舞子は俺からもう完全に距離を置こうとしている。
「ねえ、ずっとこのままでいる気?」
「このままって」
「ずっとニートのままでいいや、って思ってるの?」
「別に、そんなわけじゃないけど……。そのうち、な」
舞子があからさまに大きくたため息をつく。
「大学のころはさ、そういう無気力なところ、好きだったよ。なんか大人びている気がしたから。でもね、いつまでもそんな風じゃさすがにどうかと思うの」
俺はもう、舞子の顔が見ることができなくなっていた。
「恥ずかしくないの?」