深海ネット 前編
2.拒絶
いつものように夕方に目が覚めて、起き抜けにパソコンの電源を入れる。起動している間にトイレへ行き、部屋に戻ってメールのチェックをする。無職は無職なりに、毎日規則正しい生活をしているのだ。新着メールは一件も無かった。そろそろレイカから何か連絡があるかと思ったが、まだのようだ。まあ、焦る必要はない。決行は早いうちに、とレイカも言っていることだし、そのうち来るだろう。
あまり幸せな人生を送っていないやつは、自分よりも不幸を背負っている人間を見ると安心する。俺が毎日のように「心中掲示板」を覗いていたのも、初めはそういった理由からだった。
「心中掲示板」は、いわゆる自殺サイトと呼ばれるものの一つだ。このサイトにあるコンテンツは、掲示板ただ一つのみ。画面を開くだけでも不気味な、真っ黒な背景が出迎える掲示板。そこには、全国から死にたい死にたいと嘆くやつらが、常に集っている。簡単に「心中掲示板」にアクセスすることはできない。管理者に登録願いをメールで送り、認可が下りて初めて掲示板の中を覗くことができる。外から光が届かない、深海のような場所なのだった。
俺は初めからネット心中する気があったわけではない。掲示板の内容見たさに、でたらめな自殺願望を書いたメールを管理者に送ったのだった。
「別に生きてても楽しくないし」
「こんな救いもない世の中にいたってしょうがない」
「残りの人生なんて、ろくなことないよ。きっと」
「心中掲示板」には、そんな書き込みばかりが並んでいる。言葉は違えど、どれも結局は同じことを言っている。死にたい、とただそれだけのこと。
こいつらよりはマシ。そう思うことで、俺はどこかで救われていた。仕事が無くても、家族に見放されても、恋人もいなくても、楽しいことがなくても、俺はのうのうと生きている。それだけでも、こいつらより上に立っている、と。
でも、今やどちらが上でも下でもなく、俺はここに集うやつらと同等の立場になっている。きっかけなんて立派なものは無い。ただ、「悪くないな」と思っただけ。確かに俺はのうのうと生きてきたが、そんな生き方すらもはや億劫。そう感じるようになってきたのだ。自分の人生はまだ二十六年目で、この先には今までの倍以上の時間がある。やりたいこともなく、やることもない。そんな俺が、どうやってその膨大な時間を潰していけばいいのだろう。暇を持て余すのにも、限界がある。
そう感じ始めてきたころ、今まで見下してきたやつらの言葉が、するすると抵抗なく俺の中に入ってきたのだ。そして、言葉たちは血液のように全身を駆け巡り、俺と一体化していった。ああ、なるほど。共鳴するって、こういうことなのか。そう思った。
「明、起きてる?」
ドア越しに、母親の声がした。俺は「心中掲示板」が表示されているウインドウを閉じ、ドアの方へ椅子ごと体を向ける。
「何」
「明後日ね、お父さん帰ってくるから」
その言葉で、背筋に寒気が走った。小さく、えぇっ、と声が漏れた。
「何だよ、それ。今年はもう帰って来ないんじゃなかったのかよ」
「今、連絡があったの。出張ついでに寄るだけみたいなんだけど」
「……どんくらい居るって?」
「四日間だって」
「……」
「だから、明、お願いね」
そう言って部屋の前から遠ざかっていく母親の足音が聞こえた。
一気に窮屈な気持ちに襲われる。あいつが帰ってくる。ということは、俺の自由が奪われる。しかも明後日か。随分と急な話だ。その四日間のことを考えただけで、猛烈な吐き気がする。どうせなら、あいつが帰ってくる前に、あの世へ行くことができたら良かったのに。レイカの書き込みがもう少し早ければ。もう少し早く決行できていたら。
俺は何の罪も無いレイカを逆恨みした。
夜になり、俺はいつもの場所に顔を出す。
「こんばー」
チャットルームには、既にいち太郎もミミもいた。そして今夜は、見知らぬハンドルネームの奴もいる。珍しい。
「はじめまして」
「《わかば》はね、昨日社長とすれ違いで入ってきたんだよ」
やはり、新入りのことはいち太郎が説明してくれる。《わかば》は、東京に住む十九歳の女子大生だという。
「年が近くで、しかも女の子なの!アタシ、すごく嬉しいなぁ」
ミミが言う。
「まだチャットに慣れてなくて、よくわからないですけどよろしく」
わかばがチャット慣れしていないのは、発言のタイミングでわかった。タイピングが遅いのだろう。会話にスムーズについていけず、流れに少し遅れて返事をしてくれることが多かった。もちろん、いち太郎のように顔文字を連発したりすることも、ミミのように小文字を多様して可愛らしさを演出することもなく、発言はとても簡潔で最小限だ。どこかレイカのメールに雰囲気が似ている。
「今日は社長来るの遅かったね」
「そうか?」
「だよねえ。いつももっと早く来てくれるのにぃ」
「社長さんは本当の社長さんなのですか?」
何も知らないわかばが訊く。くるかと思ったが、やっぱりだ。
「あっはは。僕も前に同じ質問しちゃったよ」
「確かに二度目だな。その質問」
「あ、実はアタシも気になってたんだぁ」
「社長は、社長ではないらしいよ。でも、どこかの企業の会社員さんだって」
一度ついた嘘が、こうして広まっていく。でも、それは俺をまともな目で見てくれる人間が増えるということでもある。やはり悪い気はしない。
「そうなんですか。変なこと聞いてすみません」
「でも、どこの企業なのか教えてくれないんだ。ねっ、社長」
「俺のせいで、うちの企業のイメージが落ちたら困るからな」
「てことは、かなり有名なトコなんじゃ…スゴーイ!」
ミミにはやし立てられ、俺はちょっと誇らしげな気持ちになる。変なことだとは思う。実際の俺は有名企業の社員どころか、ただの無職。でも、ここで話をしていると、本当に俺は会社員で、自分の会社を褒められて嬉しいと感じている人間なのだと思えてしまう。
「みなさん恋人はいるのですか?」
唐突にわかばが質問を投げつけてきた。せっかく優越感に浸っていたのに、一気に現実に引き戻されてしまう。わかばのこういうところも、チャット慣れしていない証拠だ。周りの会話の腰を折るように、自分の思ったままに発言してしまう。初心者がよくやることだ。
恋人。幸田舞子の顔が脳裏に浮かんだ。
「いるよ」
また、嘘をついた。チャットでの俺は、本当の俺が持っていないものを全て手にしている。そうありたかった。せめて、この世界では。
「やっぱりねぇ!社長はそんな気がしてたんだぁ」
「確かミミもいるんだよな」
「うんっ。年上のね」
「わかばはどうなの?」
「私もいます」
「なんだよー。いないのは僕だけか」
涙を流している顔文字を添えて、いち太郎が発言した。
「私、そろそろ落ちます」
「あれれ、早いんだねぇ」
「明日、友達の結婚式なんです」
「そっか。なら早く寝なきゃね」
結婚か。その言葉を思うだけで、心臓の辺りにずっしりした重みが生まれる。
結婚すると思う、私。
一年前の舞子の声が、頭の中で鳴り響いた。
「おつかれさん」
「おつー」
「それでは」
わかばは退室した。
「結婚式か」