たかが映画、されど映画
ヴィヨンの妻 ~桜桃とタンポポ~
2009年監督 : 根岸吉太郎
出演 : 松たか子、浅野忠信、広末涼子、妻夫木聡
脚本 : 田中陽造
原作 : 太宰治
太宰の原作「ヴィヨンの妻」は、椿屋で知り合った若い工員に犯される場面で終わります。
この工員役は妻夫木に該当しますが、映画ではこの場面は描かれていません。
反面、映画の主要キャストである秋子(広末)と辻(堤)は原作には出てきません。
そうなると、太宰を連想させる大谷(浅野)と工員が飲み交わす場面も、大谷が自分の作品を「苦し紛れ」だと評する場面も、秋子との心中も、辻との経緯も同名原作には当然ありません。
これらは、太宰のほんの短い短編に他の作品、『きりぎりす』『桜桃』『思ひ出』他を加え、田中陽造が書き上げた脚本によります。
この脚本は、あたかも太宰のオリジナルのように、色だけでなく匂いまでも再現する程の優れものです。
演出も良く、カメラも良く、昭和20年台のセットもとても良い。
死にたがりの大谷を演じる浅野も良く、椿屋の夫婦(伊武、室井)も良い。
特に室井は、大谷と関係がありそうな匂いを振りまく巳代を演じ、彼女ならではの味を醸しています。
そしてなにより、主演の松たか子が素晴らしい。
辻と会う前と後、立ち姿だけで関係を演じ分けています。
演技できちんと伝えることが出来れば、鳴り物入りで濡れ場を撮る必要などないのです。
艶かしさは、より強く迫ってきます。
そして、最後のセリフ「人非人でもいいじゃないの。私たちは、生きていさえすればいいのよ」
ここから「ヴィヨンの妻」の原作に戻ります。
前半場面の工員との相合傘からこのセリフの直前までが田中陽造の練り上げた脚本、まったく見事なものです。
その上この脚本は、通説とは違う太宰の本質まで描いてしまったようです。
幾度も自殺や幾人かの女性と心中を企て、その度に生き延びてしまい、「やっと少し生きられそうな気がしてきた」と呟く大谷は、退廃でも深刻な思想家でもなく、まして人非人という程の極悪でもなく、気の弱い、甘え上手、話し上手、筆上手の軽い男に見えます。
ま、男なぞ、車の上で盛んに国家を論じている輩と同じく、情けない生き者なのですが。
その点、女は過去も未来も世界人類を支えているのです(ヨイショ)。
本作の大谷をみていると、太宰の心中相手の数人の女性も、太宰に寄り添ったのではなく、太宰が彼女等の手練手管にまんまと操られただけなのかもしれない、とさえ思えてきます。
作品名:たかが映画、されど映画 作家名:しん よしひさ