シテン
三度目の正直。もしくは、二度あることは三度ある。私たちは、最後のフライトを見守ることにした。一度も無事に着地をしていないナオト号は、最後だと言われた今回に懸けているはずだ。その点最初に上手く飛んだメグミ号は、余裕がありそうだった。その余裕が功を奏してか、途中フラフラっとしたが今回も無事に着地。後から飛んだナオト号は、いい感じで舞っていたが地面に着く前に低木に行く手を遮られ、止むなくそこに不時着した。
「飛行機は俺が病室まで持っていくから、ベッドに行けよ。今日はこれでおしまい」
私たちから飛行機を受け取って、羽田先生は三階の窓に向かってそう言った。メグミちゃんを抱いた看護師さんは「はい、じゃあ行くよー」と言って、羽田先生に目だけで会釈をして窓に手をかけた。まだやりたいと駄々を捏ねるのが聞こえてきそうだったが、その前に窓は閉まってしまった。
「最後はそんなに悪くなかったんだがな。ナオトは完璧主義だから」
と、先生は少し残念そうに言った。先輩は笑って頷いて、
「次は上手く飛びますよ。もう少し風が弱かったら、きっと完璧に」
と、言った。先生はその言葉を待っていました、という感じで笑った。
自転車を引いて病院の入口まで歩く。家まで送ろうかという先輩の申し出を断って、私は西へ先輩は南へ、それぞれの帰路についた。
日が落ちてきてもなお澄んでいる空とは裏腹に、私の心は曇っていた。先輩と親しげに話していた羽田先生。二人とも私のよく知る人じゃないのに、親しげに話していた二人を見て私はなんだか変な気分になった。やっぱり、仲間に入れなくて寂しかったのかな? 話しに加われなくて悔しかったのかな? 関係を聞けばよかったのに聞けなかったから、モヤモヤしているのかな?……なんだか違う気がする。その日の帰り道は、どこをどう走ったのかさえ覚えていなかった。しかもその答えは、家に帰り着いても出なかった。
「ねぇ、ねぇ。圭子(けいこ)、もう一回だけ。ホントにこれで最後にするからさぁ。制服貸して。お・ね・が・い。お願いします」
どこからそんな声が出るんだろう。顔の前で両手を合わせて、猫なで声を使って私を拝み倒している。「お・ね・が・い」と科(しな)を作って、何度も肩をすり寄せてきた。
必要以上に頭を使って、想像以上に身体が疲れていた。リビングルームの座椅子に身体を預けてテレビの前に陣取っていたが、内容は全く頭に入ってこなかった。いつも楽しみにしているお笑い番組。腹を抱えて笑えるほどではないが、普通に笑えるほどには面白いはずなのに。
久しぶりに兄が帰ってきた。家族四人で食卓を囲み、和気あいあいとまではいかないにしても、食事はおいしかった。
お腹がいっぱいになっていたからだろうか。このまま座椅子で寝てしまいそうになっていたところへ兄が声を掛けてきた。でも、すごく面倒くさい。
「お・ね・が・い。貸してー。聞いてる?」
「うん、聞こえてる。でも、動きたくない」
寝ていいよ、と誰でもいいから言って欲しかった。
「えー。制服を着たとこ、写真撮ってもらおうと思ったのにー」
兄は非難めいた声色で、口をとがらせて言った。
「昨日も着たじゃん。昨日、撮ればよかったのにー」
と、私も口をとがらせて返す。
「昨日は制服を着て、満足しちゃったんだよね。写真を撮ろうなんて考えが浮かばなかったから。ほら、デジカメ持ってきた。これで撮って」
昨日の夕方に帰ってきた兄は、ちゃんと食べてるの? 仕事は? と質問攻めにしていた母親を大丈夫の一言であしらい、私の部屋に来た。制服を貸してほしいと言って鏡の前に立ち、気が済むまで一人でファッションショーをしていた。
「もう、面倒だな。分かったよ」
私から許可が下りると、「やったー。圭子大好き」と抱きついてきた。
この人は、私の兄……だった。今ではすっかり女性っぽく、いや違うな、私なんかより格段に女性らしくなっている。女にしては背が高い私と、男にしては背が低い兄。しかも制服はスカートだから、あまり丈の長さは気にせずに楽しめるらしい。
「雅史(まさし)に見せるんだぁ」と、恥じらいもなく惚気(のろけ)ている。
「雅史さんが見たいとは限らないじゃん。一人で暴走してるんじゃないのー、また。二十四歳にもなって、学生服ってどうなのよ?」
「冷たいなぁ。大丈夫、大丈夫。絶対、雅史も好きだから、制服。コスプレよ、コ・ス・プ・レ。今流行ってるじゃん?」
何が大丈夫なのかは、さっぱり分からなかった。言い出したら聞かない兄――姉、か?……どうでもいいが、を黙らせるには制服を着せて写真を撮ってあげる他に方法はない。
「た・か・ゆ・きー。絶対、これで最後だからねー」
兄の甘ったるい声を真似て、兄の本名を呼んでやった。
「その名は、言うな。今は、身も心も‘相沢サクラ’として生きてんだから」
と、男が戻ってきた声で言った。本当に嫌らしい。
完全には捨てられない本名を隠しながら、桜の花が大好きな兄は、女になった時からこの名前を名乗っている。妹のひいき目ではないが、白い肌とよく手入れをされたライトブラウンの長い髪、凛とした横顔や女らしい立振舞は、とても美しい人だと思う。桜の花のように可憐かと聞かれると――首を傾げたくはなるが。
父親は薬品会社に勤める普通のサラリーマン。母親は専業主婦。十二歳年上の姉と、その三歳下の兄。九年経って何を思ったのか、私が生まれた。姉も兄も私の事を可愛がってくれている。そして今でも、三人兄弟は仲がいい方だと思う。
一番上の姉は高校を出て、美容師の専門学校に入った。就職してからは朝から晩まで働く日が続いて、通勤の時間がもったいないと一人暮らしを始めた。家から職場まで、片道車で四十分。往復一時間二十分の通勤時間が、二十分になったと喜んでいた。
兄は高校を出てから、女として生きていくことを決めたらしい。どこか我慢していた風だった兄は、その決断の後からは水を得た魚のようだった。私にも分かるほど、兄の表情は変わった。よく笑うようになったし、その笑顔は本当に楽しそうに見えた。
当時小学四年生だった私には、衝撃的だった。そういう人がいることは頭では理解できても、テレビの中の出来事ぐらいにしか思っていなかった。昨日までお兄ちゃんだった人が、今日からはお姉ちゃんですと言われても、すんなりとは受け入れられなかった。それでも、兄を嫌いになることはなかった。たぶん私は、兄を兄のまま好きだったのだと思う。だからあの笑顔を見た時に、兄はパワーアップしているんだと思った。優しさも激しさも持っていた兄だったが、そこに無邪気さやしなやかさが加わって、進化したのだと。私の兄があんな顔で笑える事を誇りに感じた。あの笑顔は、男とか女とかは全く関係なく、人として綺麗だった。
しかし、父親とはかなり激しくぶつかっていた。高校を卒業して地方の大学に進学して家を出ていた兄と父親は、よく母親を通して電話越しで言い合いをしていた。父親は兄の言うことに耳を貸さず、何をしてるんだ親不孝者、の一点張りだった。母親は振って湧いた災害のように最初は呆然として、時間が経ってからは兄と父親の間に入ってオロオロしていた。