シテン
** 通過点 **
連れだってくるようなところではないのは、分かっている。
「何もないんですけど」と、私。
「うん、何もないよね」と、先輩。
ついさっきまでは顔も知らない人だったのに。でも、先輩ならここを教えても馬鹿にせずにいてくれると思った。そこには、なんの根拠もない。でも、そう思った。
西館の脇から入り、東館に向かって斜めに横切る。砂利の感触を足裏で感じ、二人の足音が耳にちぐはぐに届く。
そういえば、ここを誰かと歩いたことはなかったな。
「でも、なんだか好きなんです。ここ」
「うん、そんな感じだね」と、先輩は優しく笑う。
「さすがに雨の日は、来ないんですけど……」
東館の三階の窓がゆっくり開いていく。私の一歩前を歩いていた先輩も立ち止まり、私の目線を追うように、振り仰ぎそこを見る。
「あそこの窓――――ほら、なにか……あっ、飛んだっ」
向かい合うようにして立っていた私たちの位置からは、ちょうど真上の見上げる角度。青い紙飛行機がその窓から、スーッと飛び出してきた。空よりも、青い、青い紙飛行機。「いっけぇー」と、頭上で男の子の声がする。「めぐもー」と、今度は女の子の声。そして、黄色い紙飛行機がそれに続いた。
二機の紙飛行機は、左右に少し揺れながら円を描くようにして、それでも上手く風をつかんで舞っていた。徐々に降下する。青い紙飛行機は、突然見えない壁にぶつかったかのようにバランスを失って、クルクルと回りながらつんのめる様にして芝生の上に落下した。黄色い紙飛行機は、最後まで風をつかみ、見事に玉砂利の敷き詰められた庭の真ん中あたりに着地した。
三階の窓からは、先生に抱きかかえられた女の子が、キャッキャッと喜声をあげて小さな手を打つ。男の子は「ちぇーっ」と一言。不満気な小さな声が聞こえてきた。
「せんせぇー」
と、先輩が手を振りながら羽田先生に話しかける。先生たちの位置からだと、窓から顔を出して下を覗かないと私たちが見えづらいはずだ。もしくは飛行機に夢中になりすぎていて、そこまで気が回らなかっただけかもしれないが。先生たちは、ようやく観客がいた事に気付いた。
女の子を抱いたまま、先生が顔を出す。
「おー、浩輔。学校の帰りか?」
「はい。先生は?」
「俺は、バリバリ仕事中だ」
先輩は、玉砂利の上に着地した黄色い紙飛行機を拾い上げて訊いた。
「この飛行機、名前は付けたんですか?」
「メグミ号。あっちの青いのは、ナオト号。只今、ナオト号製作者が不服を申し立てております」
頭上で「早くー、せんせぇー」と声がする。
先生の顔が引っ込んで、窓の桟にギリギリ届いたらしい男の子の顔が見えた。
「メグミちゃんとナオト君の飛行機だよ。先生、下りてくる」
と、先輩がもう一つの青い飛行機を拾うべく歩きながら、振り向いて言った。
「絶対、これを取りに来る」
その言葉には、力がこもっていた。先輩は、手に持った二つの飛行機を見た。そして、そうなることが一番望ましい、そうなるべきなんだとでも言うように、東館につながる入口を見ていた。
聞きたい事が山ほどあったのに、こんな時に限って、言葉は私の口から出るのを躊躇っていた。親しげに先生と話す先輩。『浩輔』と、私は知らなかった先輩の名前を呼ぶ先生。同じ場所に立って、同じものを見ていたはずなのに、一人だけ置いてきぼりにされてしまっている。悔しかったのか、寂しかったのか、戸惑っていたのか……。なんだかどれも違う気がした。こういう感情はなんて表現すればいいんだろう?
羽田先生は、あの時と同じように右足の踵を摺って歩いてきた。先輩から二機の紙飛行機を受け取る。近くで見たら、‘なおと’と翼の所に名前が書いてあった。ナオト君本人が書いたのだろう。ひらがなを習い始めたばかりの、一生懸命なかわいらしい字がその飛行機に似合っていた。
「ありがとう。早く戻らないと、あいつら怒るから。」
「はい。次は無事に着地するといいですね、ナオト号」
「だな。じゃないと、何度も往復する羽目になる……。じゃあな」
愛嬌のあるしかめっ面をして、羽田先生は去っていった。
三方を囲まれた庭とはいえ、ここは屋外だ。南西から吹いてくる風は病院にぶつかって、屋上を這い、大方は道を挟んで向かい側に広がる田んぼに下りている。田植えが終わったばかりの、若い不安定な稲の苗を力いっぱい揺らしていた。そこから溢れた風が、庭の中まで落ちてきて私の髪の毛を撫でていた。
「今日はちょっと風が強いよね」と、先輩が言った。
私に向けられた言葉だと判断するのに、数秒を要した。
「えっ?」
「紙飛行機。紙飛行機には、ちょっと風が強すぎる」
「ああ、うん。でも、さっき黄色い方はちゃんと着地できたんでしょう?」
「うん。だから、ナオトくんが不満なんだね、きっと。自分のだけ上手く飛ばなかったから」
と、先輩は笑った。
回収された紙飛行機は、再びナオト君とメグミちゃんの手元に戻った。私たちは東館の傍に立ち、その飛行機のフライトを見守ることにした。どうせ何もすることはないんだし。ここにいる事が日課になっていた私には、新しい見世物が向こうからやって来てくれたぐらいに思っていた。
今回は、ナオト号もメグミ号も風をつかみ損ねてバランスをくずし、あっという間に庭の芝生に突っ込んでいった。案の定、頭上からは不満の声が聞こえてきた。隣に立っていた先輩は笑いながら、
「大変だな。今度はメグミ号も着地に失敗しちゃったし」
「紙飛行機って、飛ばすの難しいんですね」
紙飛行機を自分で作って飛ばした記憶はない。たぶん、折り方も知らないんじゃないだろうか? そんな事を考えた事もなかったな。紙飛行機についての話題――――過去の出来事を思い出しても、紙飛行機に関連した事柄は出てこなかった。
「室内なら簡単に飛ぶよ。ただ、外はね……風があるから。たぶん、あの二人も最初は中で飛ばして遊んでたんじゃないかな」
先輩はそう言って、三階の窓を指差した。そして、私に視線を戻して言った。
「あそこは、小児科の病棟だから」すこし間があって、先輩は続けた。「中で飛んだから、外でもやってみたくなって、先生と看護師さんにおねだりしたんじゃないかな。もう少し風が静かな日だったら良かったかもね」
「うん、そうですね」
何かを言おうとしたけど、いい言葉が見つからなかった。で、「うん、そうですね」って……。これなら何も言わない方が良かったんじゃないだろうか。先輩の顔を盗み見る。私の不安は全く伝わっていないかのように、変わらない笑顔がそこにあった。
先輩と私で一つずつ飛行機を拾って、先生が下りてくるのを待った。「わるいな。拾ってもらって」と、軽い調子で手刀を切りながら、満面の笑みを湛えて歩いてきた。あの時の、空を飛びたそうだと思った顔に似ていた。
「おーい、ナオト。メグちゃん。次で最後だからな。ご飯の時間になるから、手を洗ってベッドに戻るぞ。だから、しっかり飛ばせよ」
上から聞こえてきた声はやっぱり不満そうだったが、次こそはという気合いも混じっていて、まるで子犬が雄叫びを上げたかのようだった。