シテン
すでに見慣れてしまった病院の画一的な廊下は、十年以上の時が経ってもそれほどの変化は見られない。自分の背が伸びて、視界の変化に伴い天井が低く、その幅が狭く感じられるようになったぐらいで、特に目を引くものは何もない。
午前中の外来診察室、特に内科は、目が回りそうな忙しさだ。人が絶え間なく行き交い、予約とは名ばかりで約束の時間になっても呼ばれない自分の順番をひたすら待つ人たち。偶然に、もしくはすでに顔見知りの傍らに座った患者同士で、何気ない話に花を咲かせて時間をやり過ごす。
そんな慌ただしい一階の人の流れに逆らい、僕は階段を上る。東館の二階、階段を上がったすぐ左側に、十六歳になっても未だに通い続けている小児科外来がある。二か月に一度ほどの割合で、定期的に健診を受けている。もっと小さかったころは、週に一度は来ていたかもしれない。体調を崩せば入院し、治療や検査の毎日を送っていた。
母親に手を引かれて、大泣きしながら女の子が診察室から出てきた。母親は「ありがとうございました」と、先生に頭を下げながら、女の子を抱き上げる。ヒックヒックと口をへの字に曲げて、喉をしゃくりあげている。何が怖いかもわからず、全てが恐怖の対象で、泣きだしたら止まらない。その恐怖の館から出てきた後でも、泣きやむタイミングを逃して、きっとこのままここから遠ざかるまでグズグズと鼻を啜ることになる。「頑張ったね」と飴玉何かを一つもらって、それを口に含めばケロッと泣き止む。車に乗って走り出したら、その振動が揺りかごのように彼女をあやし、彼女は身を任せて眠りにつく。これは、きっとだ。昔の僕がそうだったように。
白やベージュで統一されている病院の内装も、小児科だけは別世界だ。外来はそこまで凝っていないが、入院病棟は万年誕生日会さながらの場所だ。看護師さんたち力作のキャラクターポスターや壁掛けの人形、色画用紙で作られた張り紙、折り紙細工なんかが所狭しと飾られている。東館三階、小児科外来の真上に位置するおもちゃ箱。ずっといれば慣れてしまうそこも、久しぶりに訪れれば目に楽しい。
「おー、もう二カ月も経ったか。早いなぁ」
名前を呼ばれて、淡い黄色のカーテンをくぐり診察室に入った僕に、羽田先生が声をかけた。薄いピンク色にサンリオのキャラクターがプリントされたマスクを着けていた先生の声は、少しくぐもっていた。口元は歯を見せて笑っているのが、マスクの上からでも分かる。そんな先生に、ちょっと同情気味に笑い返す。
「こんにちは。今日も、大泣きされてましたね。」
「ああ、だな。あの子の前の子も泣いてて、あの子はその泣き声に感化されたんだろうなー。ここに入ってくる前から泣いてた」
女の子の気持ちは、よくわかる。だって、やっぱり楽しいところじゃないし。
肩をすくませ、ちょっと困った顔をしていた先生は、真面目な口調で続けた。
「頼むから、お前まで泣くなよ。好かれようとまでは思ってないが、顔を見られた途端に泣かれるのは……やっぱり悲しい」
「ですね。僕も昔は、ここに来るのが嫌でしたから」
ちょうど顔を出した看護師さんに話を聞かれ、彼女も加わり三人で短く笑った。
「だよな――」と、拗ねた演技をして先生が机に向き直る。
肩に掛けていたカバンをベットの下にあるプラスチックのかごの中に入れて、先生の前にある丸椅子に腰かける。
「まずは、前からな」
そう言いながら先生は、案外に似合っていたマスクを外し、代わりに聴診器を耳にあてた。
前に一度、聴診器で心臓の音を聞かせてもらったことがある。動けと命令されているわけでもなく、それでも一定のリズムを刻む力強い心音は、ああ生きているんだと実感させられた。なんでそんな事をすることになったんだっけ……?僕 が無理やりねだっただけのような気がするが……。理由は、もう忘れてしまった。
先生は必ず患者の体に当てる前に、聴診器を右手で握り冷たくないように準備をしてくれる。それは高校生になった僕にも、未だにやってくれる先生の習慣になった優しさだ。
聴診、触診、視診、問診、世間話。いつもの流れで診察を済ませ、衣服の乱れを直す。
「よし、問題なし。体調が悪くなったらすぐ来いよ。じゃなかったら、二ヶ月後だ」
先生は、普段から白衣を着ない。小学校二年生の時から、羽田先生が僕の主治医だ。覚えている限り、真っ白な白衣を着ていた記憶はない。色のついた、手術衣を着ていたことはあったような気がするけど……その時でも、胸のポケットにはキャラクターのシールを貼っていたりしていた。なんで? と理由を訊いたことがある。医者ですっていうあの服は、余計に怖がる子が多いんだ、と言っていた。だからだろう、いつも色付きのカッターシャツの袖口が、細くインクで汚れている。
「お大事にー」
よく知った看護師さんの間延びした声が、診察室を出る僕の後ろから追いかけてきた。
「はい、また来ます」と看護師さんにも聞こえるように、少し声を張る。
桜の花も散り始めようと、準備を始めている。日差しは柔らかく暖かいが、窓ガラス一枚隔てて吹いている風は、まだまだ冷たさを連れていた。
廊下からは、中庭が見下ろせる。今日もいい天気だと空を見上げ、ふと視線を中庭に落とす。西館の脇から、自転車を引いた女の子が現れた。うちの制服だ。キョロキョロと辺りを窺いながら、誰にも咎められることはないのに、慎重に一歩ずつ歩を進める。
照明が落とされて映画が始まる機先、少なからずの期待を込めて見つめるスクリーン。そんなワクワクした心で、その女の子の次の行動を盗み見続けてしまった。
玉砂利の敷き詰められた庭の真ん中は、低木と大小様々な庭石とでデザインがされている。そこに入る前に自転車を停めて、前カゴから鞄を取り出し一人でまた散策をはじめる。無駄といってもいいぐらい広い中庭だが、散策に長時間かかるほどではない。女の子は、砂利の周りをぐるっと囲んだ芝の上を跳ねるように軽やかに歩いて、そして自転車から一番近くの上部分が平らになった石に座った。周りをグルッと見まわして、女の子は笑った。冷蔵庫の奥にあった大好きなおやつを偶然に発見したような、子供っぽい満足した笑み。女の子はそこがとても気に入ったのだろう。とても幸せそうだった。僕は、そんな女の子の笑顔に釣られてクスリと笑ってしまった。
これが、僕の初めての一目ぼれの瞬間だった。