シテン
名前も顔も知らない先輩に声をかけられた時は、何が起こるのかと思った。
私の通っていた中学校は、お世辞にも優等生が多いとはいえない学校だった。私が一年生の時の三年生は特に最悪で、その年の前半は、先輩の呼び出しの標的にされていた。とにかく頭が悪いしゃべり方で、凄めばこっちが怖がると思っている。一番多かったのは「ガンをとばすな」だった、と思う。お前に視線を向けているほど私は暇じゃない、と言ってやりたかったぐらいだ。なんだかんだと難癖をつけ、同じ事を何度も言い、最終目的地はいつもあやふやで、十分な時間をかけた割には収穫はゼロ……みたいな問答の繰り返しだった。私は聞いていてイライラした。それでも私なりに、先輩としての体裁を貫かせてやろうと遠慮して、後輩をやっていた。「まさか、先輩にガンとばすなんて――ありえません。すいません、目が悪いので」これが私の常套手段。脅えたふりをして頭を下げれば、相手は満足して去っていく。威厳を保つための弱い者いじりに付き合う義理はない。
高校に入ったら、こんなつまらない事はなくなるだろうと思っていた。だから、彼に声をかけられた時、私の頭には中学校時代の危機回避手段が一瞬で戻ってきた。ガンとばすなじゃなかったら、なんて乗り切ろうかな。
一つ年上の村木と名乗った先輩は、難癖をつけに来たわけでも、ヤキを入れに来たわけでもなかった。彼らの領域に入らない限り、男子が女子に喧嘩を売ることはない、はずだ。そして私は、入学してからさほど時間も経っていないし、そこに踏み込んだ記憶もない。
私は、告白されてしまった。
初めてだ。
十五年間生きてきた中で初めての告白を、忌々しい中学の思い出と一緒にしてしまうとは――
しかし、一目ぼれ……か。いまいち理解に苦しむ。顔や名前しか知らない他人を、どうやって好きになるのだろうか?
「……なぜ?」
私の口から出てきた言葉は、これだけだった。これでは、全く意味が分からない。彼の顔にも大きな‘?マーク’が浮かんでいる。それでも彼は、懸命に私の質問に答えてくれた。バカにしている風もなく、機嫌を損ねたわけでもなさそうで、私の彼に対する第一印象は○。◎をあげてもいいぐらいだ。
外見が気になって、中身を知りたくなる。それは、私にどんな魅力があるってことなんだろうか?
いまいちピンとこなかった一目ぼれのカラクリは、もう少し時間をかけて考える方がいいだろうと結論付けた。
彼が使った『率直な反応』という言葉が気にいった。気になるから、声をかけてしまう。私が中央病院の中庭で羽田先生に話しかけたのは、正しく率直な反応だ。外見というよりは、彼のとっていた行動に対して興味が湧いたのだが。
「じゃあ、今日、一緒に帰りますか?」
わざわざ挙げてもらった具体例の中で、今まさに自分がしようとしていた流れで誘ってみた。どうせ今日もあの庭に行くつもりだったし。
「あ、うん。帰ろう。相沢さんも自転車でしょ?」
「はい。いつも帰りに寄り道するところがあるんです。一緒に行きますか? あ、でも、そこには何にもないんで、つまらないかもしれませんが――」
五月晴の空に堂々と輝く太陽は、西に傾き始めたとはいえ、まだまだ地上を照らしてくれる。ちいさな綿あめのような雲がチラホラ見えるが、それ以外は青いキャンバス。春の終わりが近づいてきているけれど、南西から吹いてきた風は少し強くて、自転車を引きながら歩く私たちの声を乱していた。