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シテン

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 携帯番号を交換した後、相沢さんが「一緒に乗っていきませんか?」と誘ってくれた。特に用事があるわけではなかったが、さすがに「そうします」とすぐさま返答をするには気が引けた。いきなり家族の人に会うなんて、心の準備ができていない。勢いよく「いや、悪いよ」と首を横に振り断ると、悪いから断るって言うなら乗っていってください、という返事が返ってきた。その言葉に思わず吹き出してしまい、最終的には首を縦に振ってしまった。
 待ち合わせ場所を下駄箱にして、一旦教室に荷物を取りに戻ることにした。
「相沢さんらしいね」
 別れる間際に、僕は言った。
「え? ……何が私らしいんですか?」
 相沢さんは、僕が告白した時と同じ顔だった。小首を傾げて考えている。
「悪いから断るって言うなら乗っていってください、ってやつ。とっても相沢さんらしいと思う」
 思い出して、また顔がにやける。相沢さんは、何がそんなに面白いのか腑に落ちない様子だった。そうですか……? と言いながら、また首を傾げていた。
 教室に戻り、鞄を掴んで廊下を走った。走りながら、よっしゃぁぁぁーと叫び出したい衝動に駆られたが、さすがに理性がそれを止めた。純愛青春ドラマのワンシーンになってしまう。叫んだ直後には、穴があったら入りたいと思うのだから――――踏み止まって正解だ。

 まだ湿っている靴に生足を突っ込んだ。いつもなら顔をしかめてしまいそうな、冷たく絡みついてくる水分とごわついた布の感触が、今日はそれほど気にならなかった。
 激しさを増した雨粒が、アスファルトの上でバウンドしていた。相沢さんはこっちに背を向けて、誰かと電話で話している。彼女が後ろを振り返り、僕に気付いた。口の端だけを静かに持ち上げて笑い、また電話の会話に戻っていった。
「あの、先輩。驚かないでくださいね。……兄が迎えに来ました」
 電話を切ると、相沢さんは困ったような顔をして言った。
「ええっと――お兄さん。うん、驚く? 何に?」
 今度は僕が首を傾げる番だった。話の流れが全く見えない。
「とりあえず、車まで行きましょう。すぐそこの校門の前で待ってるみたいなんで」
 その言葉どおり、とりあえず車に行くことにした。距離にして十数メートル。傘を差さずに走った。それでもこれほど激しい雨だと、その短い時間内で全身から水が滴った。顔を伝い、カッターシャツに吸い込まれていく水滴に、体温を奪われていくようだった。
 道端に停まっていたシルバーの小ぶりな乗用車。相沢さんはそれを指差して、後ろに乗れと僕を促した。彼女は反対側に回り込んで、助手席に滑り込む。車内はほんのりと柑橘系の香りがした。

「先輩、兄です。サクラちゃん、こちら村木先輩」
 助手席から後ろを覗きこんで、相沢さんが僕とお兄さんを交互に紹介する。そのやり方はとても簡潔で、誤解は生まれないはずなのに、僕はすらりとそれを聞き入れることができなかった。
「どうもー。初めまして。あ・ね、のサクラです」
 バックミラー越しに目が合う。合った途端、弾かれたように僕は頭を下げた。
「初めまして、村木浩輔です、今日はありがとうございます」
 息継ぎをしないまま最後まで言って、深呼吸をすると、湿気を含んで重量を増した柑橘類の香りが、喉の奥を刺激した。思わず咳き込む。
 兄と紹介され、姉だと名乗られた。
「先輩。これ、兄なんです。元、男なんです。見た目で分かるとは思うんですけど」
「ああ、うん。いや、少しビックリしました」
 走った後だからか、相沢さんのお兄さんに会っているからか、今の状況に戸惑っているからか、僕の心臓は一向に落ち着きを取り戻さない。
 いやいや、少しどころか――――かなり、結構、ビックリしまくっているんですが……。

「深く考えなくていいよ。別に、取って喰ったりはしないからねー」
 声を上げて笑ってから、サクラさんは実に楽しそうに言った。バックミラー越しに出会った目は、さっきよりも細くなっていた。
「いや、そんなつもりじゃないんですけど……。すいません」
 また頭を下げる。軽蔑とかそういうのではなくて……単純に驚いただけ、というか。ちゃんと言った方がいいのかもしれないが、確実に墓穴を掘る自信があった。サクラさんは「いいの、いいの。気にしないで」と言って、手入れのされた爪が並ぶ手をひらひらと顔の横で振ってみせた。
「先輩が謝る理由なんてないんだから、いいんですよ。驚くのなんて、当たり前だと思うから。健全な男子高校生の率直な反応……ですよ。この場合は、男子高校生じゃなくても驚くだろうから、健全な人類のってところですかね」
「人類の、率直な反応……か」
 相沢さんの口からさらりと出てきた言葉に引っ掛かる。‘人類’って。‘人間’とか‘人’とかの方が耳に馴染んでいる気がするんだけど。普段の生活で‘人類’って単語を使うことなんてあんまりない、と思うのだが。
「そう、率直な反応。だから、気にしないでください」
 相沢さんは自分の口から出た‘人類’という単語には触れもせずに、あっけらかんと言い放った。

「よし、出発するよ。村木君の家はどの辺なの?」
 ギアがDに入り、サイドブレーキが外される。再びバックミラー越しに合ったさくらさんの目は、今度は大きく見開かれていた。
「はい、あの、本郷の方です。百円橋の近くなんですけど、知ってますか?」
「ああ、百円橋ねー。オッケー、オッケー。その辺まで行ったら、道案内してね」
 アクセルが踏まれ、雨粒を押しのけるように車が進んだ。
 通称百円橋。正式名称は、知らない。たぶん、何とか大橋だと思う。普通車の通行料金が百円だから、それを皮肉って百円橋と呼ばれている。自転車にも十円請求するような、嫌な奴だ。
 エンジンの音と走行音、そして車体にぶつかってくる雨粒の音。相沢さんが横を向いてサクラさんに話しかける。それを頷きながら聞くサクラさん。外からの音が大きすぎて、何の話をしているかは分からなかったが、ころころと笑うサクラさんの笑い声だけはよく聞こえて、釣られて笑い出しそうになった。
「村木君は、何年生?」
 サクラさんが声を張り上げて、バックミラー越しにちらちらと僕を確認しながら訊いてきた。
「二年です」
「ってことは、圭子の一年先輩ね。いつもは自転車で通ってるの?」
「そうです。バスを使うと、余計に時間がかかるから」
「だね。今日はこの雨だしね。自転車では辛いなー。この道を真っ直ぐ行くと百円橋だけど、このまま行ってもいの?」
「はい。橋の手前の交差点を左に入ってもらって――」
「オッケー。とりあえず、そこまで行くよ」
 相沢さんは首だけ後ろに向けて、でも何も話さず、僕らの会話を聞いていた。こんな時に、上手く話を広げて和気あいあいとできたらいいんだろうな。

 博也なら物怖じせずに、話題を見つけてハキハキとしゃべりそうだ。残念ながら、僕にはそんな話術はない。敦毅はもう彼女の家に行っているんだろうか? だったら、話も自然と弾むだろう。
作品名:シテン 作家名:珈琲喫茶