シテン
本気で自信が無くなってきた。博也に話しながら、気持ちが沈んでいくのがわかった。それと同時に、僕は相沢さんが本当に好きなんだと確信もした。告白直後の興奮に背中を押されて独り歩きをしていた感情ではなかった事に、ホッとしながらも切なくなった。
「ふうん。答えが見つかるまで……か。気が長いな。でも、お前は好きなんだろ?」
博也は僕の方は見ずに、足元に置いた二つの紙パックをいじりながら言った。
「ああ、好きだな。今、お前に話しながら確信した」
「そうか」
「ってか、かなり恥ずいな。何を真剣に、しかもお前にこんなことを話しているんだか――。まあ、でも、ここまで話したんだ。どうにかなったら報告するよ」
ダメになったら本気で大笑いされそうだが。その方が、一緒に落ち込まれるより気が楽になるかもしれない。やはり、持つべきものは友達……か。
博也は二つの紙パックを拾い、コンビニの入口の脇に設置されているゴミ箱に向かって歩いて行った。そしてゆっくりと戻ってきながら「帰るか?」と、言った。僕は何も言わなかったが、学ランに袖を通し、自転車に手を掛けることでそれに応えた。
さっきまで山際を照らしていた夕日はすっかり姿を隠し、宵の明星、金星が存在感のある光を放っていた。東の空には新たに生まれ始めた夜が辺りを包み始めていた。僕と博也は、薄暗い街灯に急かされるようにコンビニを後にした。
日が陰りはじめたら気温が下がる初夏の夜をナメていた。汗をかいて、放置した罰が下った。汗が引いた時点で学ランを羽織っておけばよかったんだ。
朝起きたら、顔と手が浮腫(むく)んでいた。風邪をひいたらしく、喉も痛い。熱は……たぶん出ている。
母は「昨日何してたの――」と、呆れながらも中央病院に電話をしてくれて、午後からの診察の予約を取ってくれた。僕をそこへ送り届ける新たな用事ができたので、昼から行くはずだったパートの仕事は休んでくれたようだ。
こんなに身体が重たいのは、久しぶりのような気がする。一度体調を崩せばこうなることは分かっているのに、またやってしまった。この辛さを忘れることはないと思っていても、時が経てば徐々にその辛さの記憶は薄れていって、また同じことをやってしまう。自分の身体じゃないような重みに耐え、一日中ベッドの上で過ごしながら盛大に溜め息を吐く。高校受験の年の冬休み明けにも風邪をひき、もう二度とやるまいと誓ったはずだったのに。一年ちょっとで再びこんな事になるとは。自業自得、悲しい人間の性だ。いや、人間は辛いことや悲しい事は忘れるようにできているはず……なんて都合のいい言い分けをつけて自分をなだめる。そんな事をしても、身体のダルさがなくなるわけではないのだが。なんだか、さっきよりも落ち込んできた。毎度毎度の堂々巡り。
食欲はない。が、母がわざわざお粥を作ってくれたので、形だけでも食べる風を装った。テレビドラマの中のワンシーンのように、お盆に乗せられた一人前用の土鍋と取り皿。ベッドの上で上半身だけ起こし、土鍋の蓋を取る。できたての熱々は食べる気がせず、湯気を見ながら迷い箸ならぬ迷い匙(さじ)をしていたら、米粒が水分を吸いつくし一回り大きくなった。冷めたころを見計らって、その膨れたお粥を口に運んだ。僕も膨らんでいるからこいつと一緒だ、と我ながらつまらない仲間意識に少し吹きだした。
食べる風を装っていたはずだったのに、いつの間にか土鍋の底が見えてきた。意外と食べれるものだな。味はよく分からないが、さして噛まなくても喉に入っていってくれるのがうれしい。食欲がない時の咀嚼(そしゃく)、顎の上下運動はだるい。
途中一度見に来た母は、僕がまだ食べている事を確認すると何も言わずに戻っていった。時間はかかったが全部を食べきり、お盆ごと床の上に置いた。その空になった土鍋を満足そうに見て片づけていった母の顔に感謝して、眠気に誘われるがままベッドに潜り込んだ。
「浩輔」という声とともに、身体が揺れた気がした。
「浩輔。病院に行くわよ」と、やはり今回は確実に身体に振動があった。
少しずつ覚醒し始めた思考回路を急がず慌てず稼働させて、母の顔にピントを合わせた。
「浩輔、病院に行くわよ。着替えなさい」
ああ、そうだ。病院に行くんだった。「うぐっ」と、喉の奥が鳴っただけの返事をして、鉛のように重たい身体を引きずり出した。椅子に掛けてあったGパンとタンスの中から引っ張り出した長袖のシャツ、押入れの中のハンガーに吊るしてあったパーカー。身体が浮腫んでいるから自然と余裕のある服を選んだ。寝癖は一から直す体力がないから、キャップを被って押さえつける。とりあえず、外を歩けるように身支度を整えた。
部屋から出ても試練は続く。普段はなんともない階段も、今はどんな山道よりも険しい下り坂にみえる。一段ずつ確かめながら歩を進めるが、足の裏の感触はゴムを通して階段を踏んでいるみたいで気持ちが悪い。玄関にたどり着いた時には、遅刻間際の自転車フルパワー漕ぎの後のように、それよりも今のこの十数段の階段の方が過酷かもしれないほど、疲れていた。
下駄箱の下に転がっていたナイキのサンダルを引っかけて、母の車に乗り込んだ。座席を少し後ろに倒し、自分に心地よい場所を探した。二段階ほど倒した場所に落ち着いて、というか妥協して背中を預けた。自然と目がいった空には、灰色の雲が今にも雨粒を落としたそうに下界を覗き込んでいた。覗きこまれた僕は、帰ってくるまでどうか雨を降らせないで欲しいと心の中で頼んで、まぶたを閉じた。
「昨日も会ったからなあ。久しぶりっていうことはないな」
いつもと変わらないいつもの口調で、羽田先生は微笑んで言った。扁桃腺の腫れを確かめるように、両手で僕の顔を挟み耳の後ろをゆっくりと押しながら顎の方へ指を下ろす。
「だいぶ浮腫んでるな。手足もだろう? 今日はこれから尿検査な。胸の音だけ聴かせてもらって、そのままトイレに行ってくれ、な?」
シャツを捲りあげる。熱のある体には冷たい聴診器でもよかった気がするが、羽田先生の優しさは今日も健在。「はい、後ろ」の指示と同時に、椅子の回転を利用して床を歩くように先生に背中を向ける。座っているだけでも体力を消耗しているのが分かる。呼吸が荒くなってきて、身体が思うように動かない。
「しゃべるの辛そうだな。お母さん、来てるんだろ? 外にいるのか?」
声を出すのが煩(わずら)わしくて、首を縦に振った。先生は立ちあがって診察室を出て、廊下の長椅子に座っていたであろう母に声をかけた。
「こんにちは。今日、これから検尿してもらいますね」
「ああ、どうも。お久しぶりです。またあの子、体調崩して。ご迷惑をお掛けします」
両手を前で合わせて頭を下げている母が想像できた。
「お母さん、ちょっとだけ話を聞かせてください」
先生はカーテンを開けて母を診察室の中に通すと、ベッドの下にあった回転しない丸椅子を取り出して進めた。
「浩輔君、しゃべるのも辛そうなので。ご飯は食べてますか? 昨日はどうでした?」