戀ふる音色
久しぶりに飲みに出た。スランプも長引くと周りもそろそろ気を遣ってくれるようになる。カシニコフがロシアに帰国したこともあって、しばらく好きにさせた方が良いってことになったらしい。毎日、ピアノに座ることを条件に、レッスンからは解放してくれた。
なので悪友どもを誘って街に繰り出した。行き先は『お仲間』が集う界隈。普段はあまり来ないけど、たまに開放的に飲みたくなったら足を踏み入れる。気を遣わなくていいし、気が合えば大っぴらに誘えるし。
久しぶりってこともあって、飲みすぎてしまった。それもちゃんぽん。外の空気を吸いに出たのはいいけど、思わず縁石に座り込む体たらく。それでもまだ意識はしっかりしているほうだ…と思ったのは、どうやら僕だけらしかった。気がつくと、誰かが背中を摩ってくれている。
「…ありがとう。ちょっと飲みすぎちゃって」
「みたいだな。結構、無茶飲みしていたから。水か何か調達して来ようか?」
「大丈夫、少し休めばマシになると思う」
背中の手が止まって、彼の気配が消えた。酔っ払いにこれ以上関り合いたくなかったんだろう。話っぷりからして、同じ店で一緒に飲んでいた誰かかも知れない。きっと足元が危なかったから、様子を見に来てくれたのだ。
囁く声がちょっと好みだったな。摩る手の感触も悪くなかった。顔を見られなかったのは残念だけど、この状態じゃあね。
「ほら、水。冷たいから」
ペットボトルが目に入った。今、自販機から出て来たかのような細かい水滴が付いていた。声はさっきの声だ。
「さんきゅ」
受け取る時にやっと彼の顔を見る。外灯から外れていることもあって、イマイチ不鮮明。一口飲んでもう一度見ると、闇に慣れた目が少しははっきり彼を捉えた。骨格を感じさせない面立ちに、パーツがバランスよく配置されている。声同様、好みかも。
もっと彼を見たい。僕は酔いを早く覚ますため、ペットボトルの水を一気飲みする。あまりに一気に飲みすぎて、水は気管に入った。咳き込んで止まらない。
「慌てて飲むから」
僕の手からペットボトルを取りあげて、彼はまた背中を摩ってくれた。笑いを含んだ僕好みの声が気持ちいい。咳が止まると酔いもマシになり、それを感じたのか彼の手も止まった。
「もう大丈夫だな?」
覗き込む彼の顔はすぐ傍だ。
たぶん僕は、スランプからの疲れで人恋しくなっていた上に、ひどく酔っていて大胆だったのだと思う。それに彼の声も手も顔も、とても好みだった。さっきまで飲んでいた店では心惹かれる出会いはなかった。いや、彼はその中にいたかも知れないけど、印象に残ってないから、店ではほとんど喋らなかったんだろう。今、交わしている会話も二言三言。自己紹介をしたわけでもない。物騒な昨今、何者とも知れない男だぞ。親切に見えるこの行為も、下心ありかも知れない…と、欠片で残った理性は警告する。
でもなんだろう、この感覚。自慢じゃないけど、一目惚れの相手をハズしたことはないんだ。
「じゃあ、先に戻るから」
と彼は言った。え? 下心なしなの?
彼を引き止めなければ。この勘、信じていいんじゃないのか?
自問は僕にその手首を掴ませた。ああ、やっぱり、ちょうどいい太さだ。どうして引き寄せずにいられる?
引き寄せて、それから――。
その唇は冷たかった。
咳き込んだために、僕の顔が熱くなっていたせいもあるだろうけど。
夜の外気が冷やしたせいかも知れないけど。
心地よくってたまらなかった。
実はその後、どうやら彼を強引にマンションにお持ち帰りしてしまったらしく、目が覚めると二人してベッドの中だった。もちろん何も着ていない。でもヤル気満々だったわりには酔いが回りすぎて、僕のムスコはまったく役に立たず、彼を抱き枕よろしく抱きしめて眠っただけだと、状況が物語っていた。
そんな僕の不甲斐なさを、彼は責めもしなければ笑いもしなかった。ああ、少し笑っていたけど、それは馬鹿にしたものじゃなく、
「俺も疲れてたから、すごく気持ち良く眠れたよ」
との言葉に付けられたものだった。
腕から解放すると、彼はすぐに起き上がって帰り支度を始めた。日はすっかり昇っていて、時計を見ると十時を越している。
「日曜日なんだから、もう少しゆっくりしていけばいいよ。俺は予定ないし」
肩より少し長い髪を無雑作に結わえながら、彼は振り返った。背中の肩甲骨の動きがきれいだ…などと見とれてしまう。
「日曜は完全休業日にしてるんだ」
取り立てて目を引く美人じゃないけど、嫌味のない顔だ。暗闇で見たとおり、男特有のごつごつした骨格感がない。学生ではなさそうだ。髪型から見て普通の会社に勤めているようにも思えなかった。かと言って、水商売特有の媚びた雰囲気もないし、服もユニ○ロかABC○ート辺りのカジュアルって感じだし。
あれこれ想像している間に、彼の身支度はすっかり整えられてしまった。その間、会話はなし。僕のことを詮索しないってことは、一晩限りの相手だと割り切っているのか。僕の方はそれで済ます気はなかったから、当然、名前も連絡先も聞いた。
「決まった相手、いる?」
「今はいない。でもしばらく作る気もない」
「なんで?」
「う〜ん、いろいろ面倒だから?」
何でそこで疑問形なんだよ? はぐらかされた感じがして、思わず笑ってしまう。
彼は結局、越野環と名乗っただけで、携帯の番号も連絡先も教えてくれなかった。「時々は昨日の店に顔を出すから」と言い添えたから、機会があれば会っていいとは思ってくれているのかも。
だけど、どうやらそれは僕の自惚れだったらしい。
僕は三日と空けず、出会った店に通った。でも会えたためしがない。避けられているのかと思うくらい。
友人達の話によると、彼の姿は時々見かけると言うから、常連には違いないようだ。人当たりがよく、すぐ誰とでも打ち解けるところから、水商売系の仕事をしてるのではないかと言うのが大方の意見。けど、実際に彼がどこの誰で、何をしているかを本当に知っている人間はいなかった。意気投合すれば一晩付き合ってもくれるらしい。「色々面倒だから、特定の相手は作らない」と言う彼の言葉は、まんざら嘘でもなさそうだった。
「やっと調子が出て来たね? ミューズが見つかった?」
三ヵ月後にカシニコフ先生が来日。ニューイヤー・コンサートでN響と共演するためだ。その間、僕に特別レッスンをつけてくれることになっていた。久しぶりに僕の音色を聴いて、開口一番に前述の言葉をくれた。まったく、我ながら現金な指だと思う。
越野環には会えないままだけれど、僕のピアノは『歌い』始めた。原動力が彼であることは間違いない。
この一目惚れは本物だろうか? それとも気の迷いだろうか? 今まで刺激をくれた『彼ら』とは違い、越野環とは音楽抜きの出会いだった。
でも指は正直だ。彼と言う存在を得て、歌うことを思い出したのだから。