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戀ふる音色

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 モスクワは惜しくも二位。けど一位該当者無しの…って付け足しておこう。それとザルツブルグはおかげさまで獲れました。あとまあ、細かいコンクールなんかも。国際コンクールはほとんどが海外、入賞者はガラ(コンサート)とかでその地に足止め食う。日本に戻っても記念コンサートとかリサイタルとかに追われて、時間を自由に使うゆとりがない。一年なんか「あっ」と言う間に過ぎた。
 何とか時間を見つけては例の店に行ってみるけど、やっぱり越野環には会えなかった。彼が出没するのは土曜に限られていることはわかっていたのに、僕の土曜の夜はたいてい、弾くにせよ聴くにせよ、仕事の予定が入っていたからだ。
 クラシックに興味がなければ、ピアニストの名前なんて目に止まらないだろう。どんなに国際コンクールで名を上げても、彼に届くとは限らない。
 会えないから美化し続ける。会えたなら錯覚だったと思うかも知れないけど、今の僕を駆り立てているのは、とりあえず彼なのだ。
 だから僕はあきらめなかった。
「葉山くんは甘いものは大丈夫かい? 面白い店があるんだけど、行ってみないか?」
 とあるオーケストラ付きコンサートの打ち上げで、親しくなったオケの若いメンバー達が二次会代わりに次へ行くと言うので、僕はそれに付き合うことにした。後援会のお歴々と母校の恩師へのお礼奉公――年寄りとご婦人方の相手はもううんざりだった。
「そこはね、チョコレートが肴なんだ。これがなかなか、洋酒に合うんだよ」
「ちゃんと合わせて出してくれるしね。そこのママさんがまた、名物なんだ。君、ビックリするぜ」
 店の名前はヴォーチェ・ドルチェ。チョコレートで酒を飲ませ、そして大人の男限定の店だ。だからと言って、そのテの人間が集まるところじゃないらしく、客筋も悪くない。仕事帰りに独りで飲みに来ていると言うサラリーマン風情ばかりだった。
 連れて行ってくれたメンバーが言った通り、そこのママを見て僕はびっくりした。
「いらっしゃいませ、大野さま。ごめんなさいね、カウンター席しかご用意出来なかったのだけど、よろしかったかしら?」
 『彼女』は実に良い声だけど、それは腰に来るくらいの低音だった。きっちりとアップにされた髪に着慣れた和服は確かに女物、仕草も言葉遣いも。でも体つきはおよそ女性からはかけ離れていた。体格は立派で贔屓目にも体育会系男子にしか見えない。
「こちらのお連れさまは初めてのお顔ですわね? ようこそ、ヴォーチェ・ドルチェへ。素敵な時間をお過ごしくださいな」
 多分、僕は呆けた顔をして『彼女』を見つめていたに違いない。そう言う反応に慣れているのか、にっこりと笑って席を勧めてくれた。
「ね、驚いたろう?」
 ここを予約した大野さんが耳打ちした。頷く以外に答えようがない。
 最初は衝撃的だったけど、すぐに慣れた。静かで落ち着いた店の雰囲気が気に入ったし、ぼたんさん(ここのママさん)が話上手なので会話も弾む。チョコレートで飲むアルコールがこんなに美味しいとは新発見だ。
 初めての僕は、店のオススメに頼るしかない。カクテルの種類にだって明るくないから、何から何までお任せだった。もともと飲むのは嫌いじゃない。どんどんピッチが進み、調子に乗って注文しつづける。
「カクテルを侮らない方がいいですよ。見た目ほど軽くないから」
 何杯目かを頼んだ時に、バーテンが言葉と水を添えた。意外に若い声だ。聞き覚えがあると思うのは気のせいだろうか? 
 目を上げて彼を見て、僕は思わず息を飲んだ。次にはカウンター内に戻りかけた彼の手首を引っ掴んでいた。その太さにも、感触にも覚えがある。
「こ、越野環?!」
「はい?」
 薄暗い店内、カウンターの中も雰囲気を壊さないように、極力照明が抑えられている。灯りがゆらゆら揺れているから、キャンドルかも知れない。揺れる淡い光が、彼をぼんやり照らしていた。僕は手近にあった客席用のキャンドルを引き寄せた。更に彼の顔が浮かび上がる――間違いない、忘れたことのない越野環だ。
「えっと、どこかでお会いしましたっけ?」
 やんわりと彼は、握り締めている僕の手を外した。
 大野さん達やぼたんさんが僕を見ているのに気づいたけど、気になんかしてられない。すべての視線なんか無視だ、無視。
 やっと会えた、僕の原動力。
 



 何を話そう。
 何から伝えよう。
 大事な時に、なんで言葉って出て来ないんだろう?
 でもこれだけは言っておかなくっちゃ。
「俺にはミューズが必要なんだ」
 きょとんとした彼の表情に僕は心底見惚れて、自分が恋をしていることを実感した。


作品名:戀ふる音色 作家名:紙森けい