視野の重なり
黒く煤けた木製のドアを開け入った店の中は薄暗く、淡く流れるピアノの調べ、念入りに選ばれた調度の類、新興住宅街の浅はかな雰囲気と一線を画しているつもりだろうか。滑らかな手つきでコーヒーを入れている髭のマスターが観葉植物の向こうから入口に立ち止っている俺を睨んだ。店内の寂しさを強調するように正面にあるガラス窓、大通りに面したテーブル席の方へ向かってしまったのはただ単に雨の様子を知りたかったからというだけだ。目の前の通りを高校生達が自転車を全速力で走らせている。笑顔、まるで雨に濡れることを喜んでいるようにお互いに相手の車輪を蹴飛ばしながらいきなり車道を横断して住宅街の小道へと消えて行く。俺はひねくれるようにして彼らから眼を反らすと席の隣に山積みになっている週刊誌の山をテーブルの上に載せた。高校生くらいの長い髪を茶色く染めたウエートレスが立っていた。俺の動作をいかにも面倒だというような調子で一瞥すると、水とおしぼりをわざと週刊誌の山の向こう側の、俺の手の届きにくい位置へと置くと早足でカウンターへ姿を隠そうとする。
「ブレンド」
俺は投げやりに呟いてグラスに手を伸ばし、口に転がり落ちてきた氷を一かけ噛み砕いた。口の中に広がるカルキと歯に突き刺さるような痛みに顔を顰めながら、「山」をかき分けかき分けしているうちに、この雑誌の群が一つ法則に基づいて収集されていることに気付いた。女性週刊誌、写真週刊誌、総合雑誌、表紙に同じくある聞き慣れていない人物の名が一様にどこかしら印字されている。そしてその中でほとんど見たこともないような装丁の一冊。抹香臭いペンネームの隣に並ぶのは「可能性」、「神秘」、そして「信仰」の文字。畳みかける文句が鳩と南国の花に見るものを圧倒するような一本の光りの上に踊っている。俺はそれを手にとってパラパラとページを捲ってみた。裏表紙一杯に背広姿のどこかの経理課長とでもいった男がどこぞの独裁者よろしく片手を振り上げて叫んでいる姿が描かれている。それに続く目次には信者達の他愛もない告白が飽きもせずどこまでも連なっていた。本を閉じた、眼を閉じた。真っ暗闇だ。もう一度グラスに手を伸ばし、ようやく冷たくなってきた水を啜り込む。微かに塩分を含んでいるのか、水は舌の上を曖昧な味覚を残して駆け下りて行く。それにつきあうようにしてそれまで気付きもしなかったコーヒーの香りが、人気のない店内を巡って俺の鼻の辺りにまで広がってきた。眼を開けるとカウンターの向こう、無心でコーヒーを入れている髭の脇に身を隠すようにして、さっきのウエートレスが俺の方を珍しそうに覗いている。俺が睨むとわざとその視線を拒むようにして髭の背中に逃げ込んだ。俺は再び雑誌の山を崩して、写真週刊誌のページを覗き込む振りをした。
ドアが開いた。青い上っ張りを着込んだ女が一人、店内を覗き込むようにして入ってきた。彼女は事務所で出会ったあの時とまるで見違えたように滑らかな足取りでこちらへと向かってくる。俺は別に無視する理由を探す訳でもなく、目の前の雑誌の山を空いた椅子の上に片付けると彼女がボックス席に腰掛けるのを待った。
「奇遇ですね、こんな所にいらっしゃるなんて、面接の方、どうでしたか……と言っても社長がいないんだから……また今度っていわれたんでしょうけど」
雑誌を閉じて俺の顔を捉えているその大きめの瞳が暑苦しい。肩の辺りで切り揃えられた髪を掻き上げながら俺の手にしている雑誌に眼を移しながら、慣れた手つきでテーブルの端の砂糖とナプキンの下で下敷きの振りをしているメニューを取り出していた。
「雨、結構降ってきてるみたいですね。これじゃあ、現場は結構大変なんじゃないかしら……と言っても別にアタシに何ができるという訳でもないし」
まるで独り言のように呟くその唇の影は別の言葉を吐こうとしたなれの果て、ただのぼんやりしたとしたかすれた響きだけが俺の耳にしがみつく。髭はこちらに背を向けている。その肩が微かに震えているのは笑いのせいか?茶色い髪のウエートレスの引きずるような笑い声が聞こえる。「ヨウコちゃん」は俺の顔に浮かんだ笑みの意味を計りかねたように手を挙げた。茶色い髪のウエートレスは弾かれるように髭の影から飛び出して、カウンターの脇に集められたグラスを手に取ると自動人形のような格好で歩いてくる。彼女はその流れを引き継ぐような調子でその手からグラスを受け取ると、メニューの一隅を指さした。茶色い髪のウエートレスは顔色を変えずに頷いて俺が寄せ集めた雑誌の束を小脇に抱えると、また髭の方に消えて行った。テーブルの上には一冊だけ、新興宗教の機関紙が置き去りにされている。「ヨウコちゃん」の視線がその雑誌に集中しているのがわかる。自然と薄暗く見える笑みが俺の頬に浮かぶ。彼女は隣の椅子に載せた荷物を何度か確認する振りをする。深めのクッションの効いた椅子の上で紙袋はそんな彼女をあざ笑うように確かにそこに存在している。俺は何もいわずに痒みが走る唇をグラスの先で浸した。安心でもしたように「ヨウコちゃん」はようやくテーブルの上に置いてある雑誌を手にした。それにタイミングをあわせるかのように茶色い髪のウエートレスがカウンターに置き去りにされているようなカップとクリームを手に俺の前のテーブルに並べて間を持たせる。髭は相変わらずこちらに背を向けたまま肩を震わせて笑っているようだったが、勢いよくドアを押し開けて飛び込んできた高校生の集団を見つけると、再びあの無愛想な面をこちらに晒して、不器用に並べられているカップの整理を始めた。髭に無視された高校生達は手にした大学入試の過去問題集を見つめたままお互い聞き取りにくいような低くかすれた声で呟きながら俺の後ろの席に陣取った。「ヨウコちゃん」はふらふらと焦点の定まらない俺に呆れ果てたような大きなため息をつくと、手にした雑誌を慣れた調子で一ページ、一ページ、捲りながら、俺にはとても真似ができないような真剣な視線をその上に浴びせかけている。俺がクリームが入った壷を無造作にテーブルの上に落したりしなかったなら、彼女は俺のことなんか忘れ去ったかもしれない。弾むように雑誌から引き剥がされた恨みがましい瞳。そこからは曖昧な光りだけが俺の眼の中に焼き付いた。
「これで外が晴れていればいいんだけど……。私、よくこんな買い物なんかに出掛けたとき、よく寄るんですよ、ここに、ここら辺ってもうほとんど新しい住宅街だから喫茶店とか寄り道するとこほとんどないでしょ?だからどうしてもこんな、駅の近くの狭い喫茶店なんかについ寄ってちゃって……」
「しかもここなら駅前の立体駐車場に車を置いておけば、事務所にはばれないしね」