アンジェラ
老人は書斎の明かりとりを離れると、力なく、がすぐに虚空を凝視して決然となり、窓辺に置いた木椅子に腰掛け、いつものように書物を開いた。彼はこれから起こると思われることに身構えていて、それだから書物にページが捲られるようなことはまるでなかった。そうしているうちに景色の退色が進んでゆき、海岸線はひときわそこで寂寥の色を深めるのだった。やがて玄関の扉が開かれる音がとどき、次に叩きつけられるような音がたつと、少女の力強い足音が、彼の待つ書斎へむけ近づいてきた。書斎の空気がすっかり彼女へと引き寄せられてしまうほどの、強い勢いで戸が引かれた。
そこには全身水浸しになったまま、これ以上ないほどに目を見ひらき、躰をまるで痙攣のように打ち震わせる、少女の姿があるのだった。彼女は体重を踵に乗せたような立ち方で直立し、いちど背後へと傾くのだが立て直し、そこに血の滲むのではないかというほどに、ひときわ強くその瞳を見ひらいた。老人は床の羽目板からゆっくりと見あげてゆくような素振りを努力して、少女のその強い眼差しを受けとめる。少女は直ぐに老人へと駆け寄って、肘掛けに添えられるその手をとった。言葉はないが酷く呼吸を荒げていて、動作のたびに折れてしまいそうなほど細い首の喉もとに、その息を詰まらせる。老人はそんな少女に手を引かれ、書斎を後に、そして野外へと連れだされていった。翼の尖端が彼の握られる手の甲をこそばゆく掻いた。老人はこうして頑なに張りつめたバネのように動作する少女に引き連れられ、邸宅と納屋の囲い込む裏庭の中央に連れだされたのだった。少女は老人の手を離すと納屋に駆け込んだ。引き摺るように両手でもつ薪割り斧を持ち帰ると、呆然と立ちつくしたままの老人にそれを寄り掛からせ、あるいは涙とも思えるものを、あるいは髪からつたわった海水とも思えるものを瞳いっぱいに溜めながら、言葉を発しようとするがそれは叶わず、自らが渾身で握りしめている老人の手のなかに斧の柄をすべりこませた。見あげる瞳で訴えつつも、懇願するように握る手を揺らし、不意に手放すとしゃがみこみ、薪割り台に使っている切り株の上へ翼を押しつけるような格好で、どうにかその声を振り絞ぼった。こんな翼なんかいらない!こんな翼ならわたし無い方が良いもの!はやく、はやく、切り落として!そしてその瞳をしかと閉じ、嗚咽をもらし、躰を小刻みに震わせて、その歯が砕けてしまうのではないかというほどに、歯軋りをつづけているのだった。
老人は頭だけを項垂れて、そんな少女を見おろしていた。青白い下腿を八の字に崩し、突き出した膝を抱えるようにしてしゃがんでいる少女を掠め、泡沫がまるで綿毛のように流れていった。彼はその手にある斧の柄を自分の力で握りなおすと、刃になった側を確かめて、少女の傍らへと歩み寄る。屈み込むと手の甲で、少女の鎖骨のあたりにそっと触れた。軽く押しやり、その背をあと少し逸らすようにと、そんなふうに促した。翼は切り株の縁に丁度良くあてがわれたようだった。老人の手が退かれ、すると少女は覚悟を決めたかのように顔を顰め、ほとんど直角といっていいほどまでにその首を曲げ、ただひたすらに震えている。老人はいま音の無くなった世界にいた。まるで自ら行う事の成り行きを、見とどけることしかできない者のようだった。彼は手にした斧を大きく頭上へと振りかぶる。そして力を込め、正確な位置にむけて、振り下ろした。いまや斧と一体となったような老人の手のなかに、翼を打ち抜き、そして切り株に食い込む刃の感触が、決定的な手応えとしてつたわった。少女が胸を突き出して跳ね上がる。その喉笛からは細く伸びる唾液の糸が放たれて、けれど一瞬で詰まるその呼気は、声になることもできないのだ。彼女は思考を埋めつくす鮮烈な痛みのなか、一縷にいま射し込もうという光芒のはじまりを見ているのだった。横向きに倒れ、両肩を抱きかかえるように身を丸め悶えるのだが、目にするものを漠然と受けとめるしかできない思考の目前に、映像はまるで風に捲られるページごときものだった。彼女は過去に翼を失ったその理由をいま、なんの感応もなく理解した。動作を失い、網膜の表面に記憶を再生してゆくだけの少女の、胎児のように躰を丸め横たわる姿が、そしてその傍ら呆然と立ちつくす老人の頭頂が、色の無い下生えを背景にいま、見おろせる。視点はいま、少女を空へといざなった、またこうして断崖に舞い戻る、海鳥のものとなっている。退色をつづける見おろしの景観を横切って、泡沫がまるで綿毛のように流れてゆき、そして滑空をつづけるこの視点は、ゆっくりと高度を上昇させ、風音を聞き、翼を傾け、しなやかに風へと切り込んで、少女の夢見たその飛行を、意図もなくが思うがままに。