アンジェラ
── 3 ────
少女が翼の訓練をはじめてから、海岸線の景色が精彩を欠いてしまうようなあの季節が、二度ほど過ぎ去った。いま三度おとずれようというその季節のなか、少女はいまだ、翼を操るための訓練をそこでつづけていた。はじめの一年には著しい進歩がみられたものの、羽ばたく力が身につかず、それからの成果は一向に上がらなくなっていた。しばらくは日によって良好なこともあり、少女はそれに励まされるのだが、反してまるで動作の揮わないような日もあるのだった。この半年というもの、技術は寧ろ後退しているといってよいくらいだった。けれど少女はこの訓練を、なにかの苦行を受け容れるかのごとく真剣につづけていった。いつしかその瞳は深く落ち窪んでしまい、華奢でありながら人形のように美しかったその肢体はやつれてゆき、ガラス玉のようであり無機質なその眼差しは、ここへきてなにかに取り憑かれた者のように、狂気の眼光をひそめていた。
老人と向かい合い食事を交わしているさなかにも少女は、唐突に憤りを感じたようになることが少なからずあるのだった。不意にスープを掬っていたスプーンを円卓に打ちつけると、その瞳にはもはや潤すものが涸れたとはいえ、あたかもそれが零れてしまうことを恐れるように瞬きもせず、燭台の装飾を見つめたままになってしまうこともあるのだった。老人は表情もなくただそれを見まもった。神聖なるものへの憧れにより、取り乱してしまうことを恐れる思い、そして思うままにならない翼への憤りのせめぎあいに、懸命に呼吸を整えようというこの少女を。
そんなある日のことだった。そのころ少女は邸宅の裏庭にあたる断崖のテラスで翼の訓練を行っていて、その日もまた同じようにそこにいた。その場所は奥まったところにあり、たとえ港から不意の来客が訪れたとしても、人目につくことのないような場所だった。午後の陽射しは陸側の山陰に遮蔽され、葡萄色の淡いフォトンの漂いが空間に満ちる時刻だった。その日は海からの風が普段よりも増して強かった。少女は水平線を遠く眼差したまま、その風を正面からの向かい風にうけ、翼で揚力を得ようという様子だった。
老人は書斎の細長い明かりとりから、そんな少女の背姿をただ見まもっていた。淡い水色の修道着のようなものに身をつつむ少女が、吹きすさぶ風のなかに立っていた。広げられた翼は切り替わる風向きを捉えようと、移ろいのたびに右へ左へと傾いている。少し前傾になりながらも、細い腕を前へと垂らしていて、それは暗室で壁を探る人のような仕草に見える。この地方は海水の水質が原因で、荒波がつくる泡沫が綿毛のように風に舞うことがあるのだった。それがいましたたかになろうとしていた。藍色の絵の具を薄めただけで描き上げようといったような景色のなかに、幾つも綿毛が舞い上がり、少女の姿を掠めては、その後ろへと流れていった。彼女は少し爪先だちになりながらそこで、ゆっくりと風にむけ歩むのだった。
少女の瞳に映るのは、色のない輝きを煌めかせる水平線までの水面だった。そこへいま数えるほどの海鳥があらわれ、それらは向かい風に高度を保ち、器用にその位置を守りながらも、かわるがわるに鳴いている。少女は顔をむけそのうちの一羽を眼差した。すると海鳥はむこうを向いたままの目尻から、少女をまるで注視しているかのように見るのだった。泡沫の綿毛がその間と向こう側を流れていった。不意に水面へと滑空をはじめたその群れを追うようにして、あろうことか、少女が断崖のテラスから踏み出した。
それは老人が予見した通りのことだった。少女は老人の視界から直ぐに見えなくなったのだが、彼女は錐もみになりながら海へと落ちたのだ。少女はその回転する視界に、これまで一度も感じたことのないほどの恐怖、否、確かにこの恐怖を知っている、となにかをその瞬間に回想しつつも、かくのごとく額によぎるものをめまぐるしく変えながら、逆さまになって落ちてゆく。急速に近づいて打ちつける水面はまるで衝撃の塊のようなものだった。翼を引きちぎらんばかりの強い痛みが背中にはしり、すぐに荒波が摩擦する激しい水の音像がそれ以外の余白を埋めた。少女はそのなかで流木のように翻弄した。水は刺すように冷たく、着衣は重くなり手足に絡みつき思うようにならないのだが、空気をたくさん蓄えたその翼には、少女の痩身を大気へもちあげるだけの浮力があった。