アンジェラ
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季節が過ぎ春が訪れると、海岸線の岩に積もる堆積土に、小さな花弁をもつスミレの類が咲きはじめる。多くの花が淡い空色をしていて、大概それは、潮風に揺れている。またその色を白だけに限って、ツユクサの類も咲きはじめる。花のない植物もそれぞれの葉を広げ、海岸線は鮮やかな彩りに縁取られてゆく。
少女は陽射しの溢れている窓辺にいる。木椅子に深く腰掛けていて、姿勢を正すように背筋を伸ばし、揃えた膝のスカートの上に、小さな手のひらをのせている。その表情は血色も良く満ち足りたものだった。そよ風に揺らめくカーテンのレースに包まれながら、眩しくはない光に輝いた水平線を、眺めているのだ。
紅茶を届けに来てくれていた老人が、それを音もなく置き据えたこの部屋の暗部からいま、廊下へと向かった。ゆっくりと閉じてゆくこの部屋の戸を、少女はいちどだけその目にした。たったいま紅茶を届けに来たあの老人は、少女のことをアンジェラと称していた。けれど彼女はその名を自分のものであると確信できず、がそれをただここにある世界と同様に、受け容れることとしたのだった。考えることは何もない。深い霧が埋めつくすような眠りの淵から、わたしの意識は生まれたのだから。
周囲に人の気配を感じなくなった少女は、不意に立ち上がると手を伸ばし、薄く開かれた長窓のガラスへと触れてみた。むこうには広大な空間がある。こんなに薄い隔たりと格子が、そこへの自由を阻んでいるのだ。
彼女は海からの光に照らされる、自分の両手を眺めてみた。陰影を深める手のひらはとても立体的に見えている。手首のあたりに少しだけ青い血管が見てとれ、肘にむかいはじめると、それは皮膚の白さのなかにむけ埋没する。
肘から二の腕にかけては、念入りに包帯が巻かれているのだった。それは腕から脇をくぐり背中へとまわり、何重にも巻かれ、平らなその胸をそれより更に圧している。腕を上げ、肩を回してみる。それほど不快ではないものの、彼女はそこに、ささやかな束縛を感じたのだった。
ワンピースを肩から滑らせると、二の腕に止められた包帯の一端を見つけだし、そこから慎重にそれを解いていった。解くにつれ喉もとの窪みや細い鎖骨、そして貧弱なその胸があらわになった。すっかりそれを解いてしまうと、彼女は自らの躰をそこで点検し、外傷や疾患にあたるようなものがまるで見あたらないことに、束の間の戸惑いをみせるのだった。それならば患部は完治したに違いない。わたしにはなんの記憶もないのだけれど、躰はこの通り、すっかり健康になっていたのだ。
裸でいることに心許なさを覚えた少女は、床に落としたワンピースの輪のなかで爪先を揃えると、その生地を手繰り上げ、それぞれの肩に細い肩紐を負わせたのだった。両手を対称に後ろへとまわし、下からひとつずつ対になるフックを止めてゆく。いちばん上のフックを止めるには、一方の手を上からまわすようにしなければならなかった。そのようにして両の手を背で出会わせると、そこにはなにか不可解な感触があるのだった。
彼女は振り返るとあらためてこの部屋を一望した。寝台のむこうには老人がティーカップを置いていった横机があり、そしてその向こうには鏡台があり、その周辺はこの窓辺からは薄暗く見えていた。伏せられた背面の細工を輝かせ、手鏡が鏡台の上に置かれていた。彼女は歩み寄るとそれを手にし、窓辺に掛けられた姿見の前で振り返り、無限に奥行きを重ねる合わせ鏡を、自らの鼻梁と重ね合わせ、手許に見る。
重なった像をずらしてゆき部分を見た。そこには一対になったなにかの痕跡のようなものがあるのだった。少女はしばらくのあいだそれを見ている。やがて手鏡を胸に抱くとその力を強めてゆき、ややあって唐突に上向くと、閉ざしていた目をあらわにし、正面を見すました。すきま風に舞い上がるカーテンが、そのくちもとまでを遮った。いまや一枚の絵画になろうという少女の、レースの縁でこちらを見つめている瞳のなかで、透過をはじめるガラス質の光沢が、絵画の色彩に慰めを受ける。
<了>
2010/09/30
sai sakaki