アンジェラ
少女はそれならばと注意を払い、思いを正し、まったき人として生きてゆくことだけを心がけた。詮索好きな港町の婦人たちとも丁寧な挨拶を交わし、自身にむけられる好奇の眼差しを知りつつも、親しみのこもった笑顔をみせた。潮風に目を赤らめ、全身の体毛を陽射しに脱色された逞しい漁夫たちにもよく漁獲を訊ねた。商人たちとはその店先で当たり障りのない会話をし、またそれらを疎んでいるような印象は、ついぞみせなかった。けれど多くの女たちは彼女に言い様のない隔たりを感じ、また多くの男たちはその美しさに魅了され、が彼女のガラス玉のような瞳のなげかける眼差しが、自分の躰を擦り抜けていってしまっているというような、そんな居心地の悪さを覚えたのだった。
少女は人々に与えてしまっているそんな印象を、少しも気づきとれず、また仮にそれができたとしても、おそらくはその印象を心にするための感性というものを、持ち得ていなかったのではなかろうか。彼女は繰り返しに町を訪れては、老人に食べさせる食事のために食材を買い求め、いつも変わらない演じられた笑顔で人々に接し、そしてその彼女特有の、相手にどこか虚しさを味わわす対応の余韻を街路のあちらこちらに残しながら、小径を昇り岬へとむかう、家路につくのだった。
夕食にはたいがい、明るいうちに書物を読みながらゆっくりと煮出したチキンストックに、その日に買い求めた野菜類を加え、スープをつくることが多かった少女。この邸宅ではふたりともに食が細く、スープで嚥下する丸パンの数もまた多くはなかった。ふたりはテーブルクロスの掛けられていない使い込まれた円卓に向かいあい、それぞれの手許に敷かれたランチョンマットにのせられるささやかな料理を、少しずつくちに入れてゆくのだった。潮風の強い夕刻には窓ガラスが震え、首筋の和毛をこそばゆくさせるような風鳴りが鳴った。ふたりはその呼吸の数も少ないようで、そんなふたりの食卓の上で、燭台の炎がすきま風に倒れ、すぐに真っ直ぐになるのだった。
少女はその日に町で見たものを、ときおり老人に話すのだった。老人はその話題に頷き、それらに添えられる知識があるようであるならばと、それを話した。ふたりの会話は断片的で、またお互いにそれだけが必要だということは解っていた。少女はこの老人との暮らしをなにか宿命のようなものと感じていたし、老人は遠巻きに彼女を見守っているようなところがあるのだった。そんなふたりの暮らしのなかでは、お互いにその名を呼びかけることも少なかった。老人が最後に少女をその名で呼んだのが何時のことであったのかさえ、ふたりとももうとうに解らなくなってしまっていた。
会話はこのように些末なことに限定され、老人が不意に少女の生い立ちを語りだすようなことはついぞ無かった。また少女からそのことを訊ねるようなことも無かったのだ。老人ははじめからそのことについてくちを噤むようなところがあったし、少女もそれならばと耳を塞ぎ、自分の背に残された翼の痕跡だけを由来とした、生い立ちを思い浮かべ時を数えた。寧ろそれ以外のことが語られることを、彼女は快く思わなかった。老人はいつも喉もとに言葉の詰まったような心地であり、がそのことを言おうというのでもなく、少女をただそこで見まもっているのだった。彼は戸口から薄く窺いしれる少女の部屋で、彼女が神話を読む静かな窓辺を見つめては、目をしばたいた。客間の長窓に立ち止まると、そこから見おろせる断崖に沿った小径に、彼女が町に下ってゆく背姿を、そして帰路には買い物籠を肘に掛け、ときおり水平線を眺めては、向き直り、そしてこちらへと近づいてくる、その姿を見まもった。少女はいまふたたび足を止め水平線を眼差した。十一月ともなれば精彩を欠いてしまう海岸線に立ちつくす少女の、長い髪がいま風に流れ、見ていた老人は瞬きをひとつ、そして次の瞬間を一枚の絵画として記憶した。そんな日々の繰り返しに、絵画から時がやがてという隔たりによって飛躍する。