一歩でも遠くへ
俺は何とか無事に家に帰り着き、とりあえずリビングの自分の席に腰を下ろした。
何も考えられなかった。兄が出兵すると言った時も動転したが、頼りになる兄が傍にいて、兄の言葉で答えを示してくれた。
しかし、今兄はいない。誰も俺に答えをくれない。何より話の中心のはずの、常に傍に居てくれた兄がいない。
ああ、俺って兄に頼りまくってたんだなと、改めて自覚した。
情けない、なんて弱っちいと思いながらも、頭は相変わらず回らない。なるべく早くこの町を発つために準備をしなければならないのに、俺の身体は椅子に沈んだまま動いてくれそうにない。
俯いていた顔を上げれば、対面するように置かれた兄専用の椅子。
この椅子や机は、お互い体が大人に近づき親方が揃えてくれた机や椅子のサイズが合わなくなったため、兄が仕事の合間を縫って作ったものだ。
仕事場の片隅で作っていたらしく、大工仲間の先輩たちに手伝ってもらってこの家に運び込んだ時の兄の嬉しそうな、こそばゆそうな顔は今でも覚えている。
いきなりの事態にきょどっていた俺を笑いながら眺め、言うに事欠いて「ここで暮らすようになった記念日だから」とか言いやがった。
嬉しくて、でも恥ずかしくていきなり過ぎるとか、前使ってたのどこに置くのとか素直に喜びを表すことができずに口走った俺に、兄は相変わらず笑って何とかなるとか言うばっかりだった。
もう何年も使っている机には傷や汚れがたくさん付いている。しかし、金がそれなりに貯まっても買い直すという考えは一切浮かばなかった。
朝食と夕食は2人でとるのが暗黙の了解になっていて、朝に弱い兄も何とか起きてきたし、仕事で遅くなることもあった兄を俺はずっと待っていた。
食事のとき、ラジオを聴くとき、また何もせずぼぉっとしている時もこの机と椅子は共にあった。2階部分に各自の部屋があり、共有するスペースはリビングと生活空間しかなかったためだが。
2人揃って特に何もせず、ぼぉっと窓から入る柔らかい日差しに包まれてまどろんでいた時間。
他愛無い冗談を互いに口にしながら笑いあった食事の時間。
俺が料理している間寝るか新聞を呼んでいた兄。俺の作った料理を本当にうまそうにモリモリと食べる兄。
内職の作業は自分の部屋で行うことが多くて、このリビングを見ては兄の姿が蘇る。
兄が大工仕事を始めてからは、兄の記憶は休日に一緒に出かけた近所の市場かこのリビングが多い。
1年経った今も、目の前に座り楽しげに話す兄の姿を簡単に浮かべられる。
そしてふと、ほとんどの家財道具などは親方の家に運んだ事を思い出した。この家にも持ち出したいものが残っているが、親方の家の荷物をまとめてからでもいいはずだ。
「――親方」
ああ、相変わらず不器用なくせに人が良くて意外と気遣いな人だ。奥さんも長年連れ添っただけあって、コンビネーションも抜群だ。
「――――兄貴…!」
兄を見送ったあの日以来、ずっと押し込めていた、気付かない様にしていた涙が堰を切って溢れ出した。
それでも押さえ切れなくて、縋りつくように鉄のカケラを握りこんだ。
2日後、辺境に存在するこの町にはまだ軍隊は着いていない。しかし、もうすぐ来ることは確実だ。
親方夫婦と俺は待ちの外れに荷物をまとめ、親方が大工時代に使っていたトラックに荷物を積み込み出発の準備をしていた。
「この町には戦争が終わるまで絶対に帰って来れん。連絡を取ることも不可能になるだろう。忘れ物はないだろうな?」
「はい。持ち運べる物は全部詰めてきました」
思い出の詰まった机や椅子は邪魔にしかならないため、倉庫に仕舞い込んできた。戦火で壊れてしまうかもしれないが。その前に俺達に逃げられた軍が破壊するかも。
「あら、お宅も行くのかい?」
「ああ、この国にいてももうどうにもならないさ。不便になるだろうけど落ち着くまで避難することにしたんだ」
周りには荷物を抱えた人が何人かいた。みんな国外へ逃げるつもりなんだろう。
敗戦色が強まり始めた今、敵国以外の国境に軍を配備するような余力は残っていないのだろう、軍の気配は全くない。
「あーあ、この町ともお別れか」
「そうだな。まぁこの戦争が終わればまた帰ってこれるさ。さっさと乗れ。出発するぞ」
「はいよ。じゃあまた」
意図せず零れ落ちた言葉に親方が運転席に乗り込みながら答えた。奥さんは近所に住んでいた奥さんに別れを告げ助手席に乗り込む。
俺は自分の分のリュックを肩に掛け直し、最低限の荷物を摘んだ荷台に腰を降ろした。
動き出したトラックの荷台、空を見上げれば相変わらずの晴天。この空を兄も見ているのだろうか。
何とはなしに空へと手を伸ばしてみる。人よりも背は高くなり腕も身長に見合った長さをしているが、幼い頃と同じように空は遠かった。