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一歩でも遠くへ

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第2章 凍った太陽



 ――戦争が始まって1年が経った。
 しかし、戦況は徐々に不利になっているらしく、辺境のこの地へ逃げてくる人々が増え始めた。国外へ避難する人も多いと聞く。
 ラジオからも新聞からも愛国論しか流れてこない。戦況をひた隠すということは、まぁつまりそういうことだ。


 兄のその後はよくわかっていない。
 せめてどの戦地にいるのかと聞いても、軍事機密と言って教えてはもらえない。
 訃報が来ないから死んではいないと思いたいけれど、戦況が悪化している今、生死の確認が取れる状態ではないのもわかっている。
 俺達残された家族たちは、ただ生きていることを願うしかないのだ。
 戦況が不利になっている今、その望みも儚いものとして扱われることとなるが。

「何ぼさっとしている」
「親方……」

 水道の前に立ったまま思考を巡らせていると、いつの間にか親方が鍬を肩にかけて背後に立っていた。
 兄が徴兵されてから一人暮らしを続けていたが、戦争が進むにつれて内職の仕事が減り、親方の大工仕事も需要が減ったので、今は共同で畑を耕し日々の生活に充てている。

「……アイツのことでも考えていたのか。全く、暇が出来るといつもその顔だ」
「!」

 指を指されて思わず顔を触る。それほどおかしな顔をしていたのだろうか。
 そんな俺の様子に親方は溜息を吐く。こんな光景は兄が徴兵されてからほぼ日課になってしまっている。

 親方夫婦は俺達のことをまるで自分たちの子供のように接してくれていた。
 兄のことを心配しているのは俺だけではないのに、俺はいつも周りに対して気が回らない。親方も奥さんも、兄のことを心配しているはずなのに。
 立ち尽くしたまま落ち込んでいると、急に頭をぐしゃぐしゃとかき混ぜられた。

「心配なのはわかるが、こんなところで突っ立ってても何にもならん。
 昼は生きるために働いて、夜は次の日のために眠る。
 どんなに辛いことや悲しいことがあっても、人間として生きることを止めてはならん」
「親方……」

 しっかりとした目と声で戒められ、何とか持ち直すことが出来た。
 兄のことを心配するなとは言っていない。だが、今ここで心配していたとしても現状が変わるわけではないのだ。

「昼からは麦の刈入れだ。倉庫に行って用意しておけ」
「はい」

 今は、生き残るためになすべきことをやり遂げるまでだ。


 親方の言いつけ通り倉庫へむかうと、親方の家のほうが何やら騒がしかった。中には走ってどこかへと向かう人もいる。
 どうかしたのかと不思議に思っていると、俺の姿を認めたらしい奥さんがこちらに走ってきた。

「どうしたの、そんなに慌てて。まだ敵軍はこっちに来てないんでしょ?」
「今はそれどころじゃないんだよ。速くあの人を呼んできておくれ」
「親方を?わかった、待ってて」

 奥さんの焦った様子に聞き返すことも出来ずに、親方を呼びに戻った。
 親方も不思議そうな顔をしていたが、頷き鍬を肩に担いだ。

「一体何だっていうんだ」
「さぁ。何だかすごく必死そうだったけど。家の周りの人たちも慌ててたし」

 親方にも予測が付かないらしい。
 何事か予想してみようとするものの、新聞やラジオからの情報だけでは判断し辛い。
 ここは今戦争を行っている国とはほぼ反対の国側にあり、ここまで火の粉が及ぶ前に危ういという情報はもたらされる筈だ。
 特に生産の拠点というわけではないし、坑道もない。人口もどちらかというと少ない。
 それに、ここに軍が攻めてくるとしたらもっと町全体が騒がしかっただろう。


 何とはなしに空を見上げてみる。この土地には珍しく全体に薄っすらと雲が網を張っていて、本来の色を見つけることは無理そうだった。


 親方の家に着くと、近所の人々が集まっていた。みんな一様に新聞を持って喋っている。

「やっと来た!二人とも速くこれを見ておくれ!」
「何だってんだ全く……。『将軍閣下の一人子、戦場に英雄となる』。なんだ、また煽りの記事じゃねぇか」
「そうなんだけど、これ、この写真!」

 奥さんが俺達に煽り記事の隅にある写真を指差す。親方が持っている新聞を覗き込む。
 将軍の一人息子が写っているはずのそこには――


「――兄貴?」


 将軍閣下に似たでぶんとした腹を持つ男がいると思いきや、そこには写りが悪く見づらいものの、確かにこの10年共に暮らした兄の姿に間違いなかった。
 その目はどこか冷たくて、いつも側で笑いあっていた頃の面影は感じられなかったけれど。

「何これ……どういう事だよ。兄貴が将軍閣下の息子……?」
「そんなはずはねぇだろ。将軍は先代から幹部に名を連ねた家柄だ。息子が少年兵だったなんてありえねぇ」

 呆然と呟いた俺の横で、親方は目を見張りながらも冷静に写真を見つめながら言った。

「やっぱりあの子なのかい?何でまた将軍閣下のご子息なんて」
「何であの子が……。これじゃあここへ帰って来づらいじゃないか」

 近所の奥さん方が次々と矢継ぎ早に喋りだした。
 兄貴は人当たりが良く、親方の元で働き始めてからも、それ以前のように頼まれれば修理屋業を行っていたため、近所の人たち、特に奥さん方気に入られていたのだ。


「……国外に逃げるぞ」
「え?!」

 急に黙り込んでいた親方が呟いた。突然のことに声の聞こえる範囲にいた人々の動きが止まる。

「国外に逃げるぞ。最低でもこの1週間以内に軍隊が来るだろう。国外にでも逃げないとマズイ事になる」
「な、何で。ここであの子を待たないのかい?」

 親方の言葉に奥さんが戸惑ったように尋ねた。どこに居ても探すといわれたが、ここに残って兄を待ちたかった俺も親方の次の言葉を待つ。

「あいつは将軍の息子に挿げ替えられた。つまり、この町にいたアイツは存在しないことになる。
 もし、俺達がこの写真の人物は将軍の息子ではなく、孤児の大工見習いだと言いふらされれば、ただでさえ下がっている士気は更に落ちることになる。……そんなことを軍が許すはずがないだろう」

 親方の言葉に俺達は凍りついた。
 紛争に軍事力で勝利した奴らのことだ。俺達を、もしかしたらこの小さな町を吹き飛ばすくらいのことは簡単にやってのけるだろう。

 背筋がぞわりと泡立った。
 俺の両親は俺の目の前で殺された。昔ずっと夢の中で繰り返し見ていた記憶が目の奥でフラッシュバックする。
 思わず俺は兄から受け取ったドッグタグを服の上から握りしめた。

「町の人間は知らぬ存ぜぬを貫き通せば軍も見逃すかも知れん。だが、便宜上家族と名乗った俺達のことを見逃すはずがない。
 ……国外に逃げれば奴らもそう簡単に手は出せまい。時間がない。さっさと準備を始めるぞ。お前はあっちの家の片付けやらを済ませてから来い」

 親方は言い切るとさっさと家の扉を潜って家の中に入っていった。奥さんも腹を括ったのか、俺に速くしておいでと言って家の中へ消えていった。
 俺は事態についていけず、とりあえず言われたとおりにフラフラとぎこちない足取りで自分の家へと足を進めた。

作品名:一歩でも遠くへ 作家名:papama