一歩でも遠くへ
それからが大変だった。
とりあえず近隣の人々に親方の養子になったことを伝え、口裏を合わせるよう頼み込んだ。その最中偽装工作のために使われていなかった部屋を俺達の部屋っぽく改造し、荷物を部分的に運び込み、新たに不要になった二段ベッドを借りてきた。時々お世話になっていたので、食器を揃える手間は省けたが。
時間はあっという間に過ぎて行き、ついに軍隊がやってきた。
養子縁組ということで軍人はなにやら文句を付けようとしていた様だが、兄がそいつに何か言うと黙り込んだ。兄がどこの組織に加わっていたのかは知らないが、何かそれに関係があるのかもしれない。
あれから結局、兄とはマトモに話せず仕舞いだった。
行って欲しくない。でも俺みたいなのが行っても帰って来れるなんて事はまずないし、親方がいないと特に兄の仕事なんてあったもんじゃない。
頭ではわかってるんだ。俺だってそこまで馬鹿じゃない。でも、それが人情ってモンだろう?例えば、ピアノだって譜面が読めても指や足がそれに追いつかなきゃ演奏はできないんだ。
とりあえず配られた軍服に身を包んだ兄が親方の家から出てきた。肩にはリュックを一つ背負っている。そのひどく手慣れた様子に、何故か出張修理屋時代の兄を思い出した。
ふっとこっちを向いた兄が、珍しく困ったように眉を八の字にした。その表情に見覚えがあって、何気なく頬に手を当ててみると、濡れた感触があった。
あぁ、俺泣いてるんだ。馬鹿な俺、自覚した瞬間が最後だって知ってるハズなのに。
止まらなかった。後から後から涙が溢れ出てきて、しかも顔が崩れてぐしゃぐしゃになっていくのが自分でもよくわかる。
あぁ最悪。俺は大丈夫だって、せめて笑顔で送り出したかったのに。これじゃあ兄の性格上、心配するに決まってんじゃん。俺の馬鹿。
兄は俺の目の前まで来て、でも嗚咽まで出し始めた俺にどうすればいいのかわからず、ひどく戸惑った様子で俺を見てくる。
昔、両親が死んだ時のことを夢に見て泣いたことがあった。まだ兄と知り合ったばかりの頃で、多分隣に誰かがいて安心していたんだろう。
泣いて、取り乱した俺を前に、策士で口の上手い兄が、何も出来ず横でおろおろしていたのを覚えている。
そのときは何か考える余裕もなかったけど、気づいたら少年兵としても教育を受けていたという兄は、おそらく人間関係というものなど、特に目の前で人が泣いていればどうすべきかなんて事を知る由もなかったのだろう。
あぁもう俺は何なんだ。迷惑掛け続けた兄を、せめて、せめて笑顔で送り出そうっていう、この約1週間の間に築いた決意はなんだったんだ。
頭の中は盛大に回っているのに、目から溢れ出るものは止まってくれない。しばらくどうするべきか迷っていた兄は、俺を抱きしめた。
「悪いな。お前を置いてく。もしかしたらここには帰って来れないかもしれない。本当に、戦争ってものに確実なんて言葉は使えないんだ」
「うん」
耳元で、この10年聞き続けた声が響く。あ、身長は俺のほうが上なんだ、とか、こうなりゃいっそ甘えてやろうと兄の肩に額を押し付けながらそんなことを思う。
身体が弱いせいかひょろ長く育った自分と、身体を鍛えるほうにしかエネルギーが回りきらなかったのであろう小柄でかっちりした兄。
しっかりと包むように抱きしめてくる腕に応えるように、兄の背中に腕を回す。もしかしたら、これが最後の別れになるのかもしれない。この温もりを忘れたくなくて、失いたくなくて、縋りつくように抱きしめた。
「帰って、来るから」
「え?」
しばらくしてポツリと呟かれた言葉に顔を上げると、兄が俺の目をしっかりと見て、もう一度言った。
「必ず、帰ってくるから。それまで、絶対に死ぬんじゃないぞ」
生き残れるかどうかなんてなにも分からないって自分で言っておいて。それでも俺に、自分に言い聞かせるように放たれたしっかりした声に、俺は再び涙腺が緩むのを感じてまた頭を肩に預けた。
「絶対に生き残れよ」
「うん」
「どっか違うところに移動してても、探すから」
「うん」
「お前が居る場所に、帰ってくる。だから」
「うん」
「絶対に、絶対に死なないでくれ」
「…うん」
確かな約束とは言えない。これでも俺も戦争孤児だ。そんな生易しいものじゃないってことはちゃんと分かってる。
でも。普段はどこまでも現実主義な兄の、優しさが内包された愚直な言葉は嬉しかった。
親方夫婦にもお世話になったけど、死んだ両親以来、俺にとって家族と呼べるのは兄一人だった。
ただの口約束だ、わかってる。でも、それでも。
「待ってる。生きて、絶対生き延びて。兄貴のこと、待ってるから」
俺の返事に満足したように微笑む気配がして、その表情が何となく思い浮かんで、それがなんか癪で。俺が頭をぐりぐりと兄の肩に押し付るのに、兄はクックッて喉の奥で楽しそうに笑う。畜生、身長は俺のほうが上なのに。
「……絶対に帰ってきてよ」
「おう」
「兄貴が一人前の大工になって、金が貯まったら俺のために飯屋建ててくれんでしょ?」
「そういやそんな事も言ってたな」
「言ってたよ。俺の店を兄貴が自分で建てた第1号にしてくれるんでしょ?」
「ん」
「絶対、約束だかんね。俺の夢潰さないでよ」
「……ん」
兄の目は穏やかに閉じられていて、きちんと眼を合わせてもらえない。
でも、俺の言わんとしたことはちゃんと分かってるだろう。
大丈夫、二重に約束してくれた。遠回しだけど、必ず帰ってくると。
「……じゃあ、そろそろ行くよ。あんまり長居してると怒鳴られそうだ。
――と、そうそう」
急に兄は胸元を探り始めた。首に提げていた革紐を引きちぎり、握った拳を差し出してくる。
俺は戸惑いながらもそれを受け取った。
手を開いて見ると、俺が出会った頃には既に身につけていた――多分、ドッグタグ。
4桁の数字しか彫られていないけれど、唯一兄の身元を示すもの。
「な、ちょっとこれ……!」
「いいから持っとけって。どうせまた違うのが配られるんだし」
思わず突き返そうとしたけれど、兄は笑って一度降ろした荷物を担ぎ上げた。
その態度に受け取る気はないのだとわかって、しぶしぶ腕を下ろす。
「じゃあな。親方や奥さんに迷惑かけるんじゃないぞ。」
「わかってるよ。……いってらっしゃい」
振り返ることなく歩きながら手を振る兄の背中越しに見える空は、これから戦争が始まるなんて信じられないような、まるでぬけるような青空だった。