一歩でも遠くへ
男性はそれから暇を告げる以外には一言もしゃべらずに去って行った。
謝罪の言葉も何も無かったが、おそらくそれが男性の精一杯の態度だったのだろうと思う。許されたいなどとは考えていないと、あの瞳は語っていた。
許すことなどは出来ないけれど、彼に会う以前、思い出すたびに感じていた激しい想いは浮かんでこない。
なにより、彼と会い、兄の死を受けとめられたことで、ラジオで聞いた最後の言葉を思い出した。
一歩でも遠くへ。幸せだけを祈って。
“どれだけムカついたって、どんなに悲しんだって、目の前の現状が変わることはなかった。ただひたすらに、どうすれば自分は幸せになれるのか。そればかり考えてたら、目の前に行き倒れてるお前がいた”
幼い頃、自分も生きているので精一杯な状況でなぜ俺を拾ったのかと聞いたとき、そんな答えになってるのかなっていないのかわからない返答が返ってきたことがある。
意味がわからず顔をしかめた俺に兄は、とにかくどんな状況でも、恨みとか苦しみよりも幸せになることだけ考えていればいいんだと、質問とは全く別の答えを最終的には返してきた。
ただ真っ直ぐに、恨み辛みを思い生きていくのではなく、幸せだけを祈って生きて欲しいと。
どんな時も前向きだった兄は、残った息の中で精一杯伝えようとしていたんだと、今では理解できる。
ようやく心のどこかにつっかえていた物が取れ、前を真っ直ぐ見つめられた気がした。
兄の遺骨は親方夫婦の墓の横に建ててもらった。銘はどうするかと聞かれ、本来の名前などわからないままだったから、名前はそのまま、苗字は俺と同じものにさせてもらった。
命日は砦崩壊の日だと言うとおかしな顔をされたが、やっと遺骨が見付かったんだと言うと納得された。
納骨の日は真っ青に晴れていて、やはり雲ひとつ無い空が広がっていた。
墓地のすぐ側にある木の下で年若い兄が大の字に寝転がっているのが見えた気がして、俺は思わず笑ってしまった。
――気に入ったか、兄貴。この街には、今でもあの頃と同じ風が吹いている。