一歩でも遠くへ
そして終戦から、早いもので40年の月日が流れ、俺は60歳を迎えた。
子供も無事に成長し、今では息子夫婦と娘夫婦、それぞれに二人ずつ孫がいて、一番上の孫はあと幾年かすれば成人する。
足腰の弱ってきたここ数年は営んでいた飯屋の後を継いだ息子夫婦のもとで、空いた土地を耕し隠居生活を送っていた。
妻は一昨年に病で亡くなってしまったが、俺は病の気配すらなく日々健康に過ごしている。
そんな長閑な日々を送っていたある日、午後の強い日差しを避けるために軒先で休んでいると、息子の嫁が家屋のほうから呼びに来た。
「お義父さん、お客さんですよ。私は知らない人なんですが……」
「お客? ……わかった。すぐに行くからお茶でも出しておいてもらえるか?」
「はい、早目にお願いしますね」
昔の知人たちが訪れてくることは以前にはあったが、皆齢を取り手紙などで連絡を取り合うばかりで、直接訪ねてくる近隣の人間なら義娘も知っているはずだ。
遠方から訪れて来る際には何かしらの連絡を寄こしてきたはず。
出したままだった鍬を片付け、住居兼店舗に向かって歩き出した。
住居側のドアを開けると、すでに義娘は店に戻っているようだった。
リビングに向かうと、人影が見えた。こちらに背を向けているので顔は見えないが、髪や痩せ具合で自分よりも10歳は年上ではないかと見当をつける。
その年代に訪ねてくる様な知り合いを思い出せず首を捻ったが、考えても埒があかないので机を回り込み客人の前に立った。
そこで始めて自分の存在に気付いたのか、客人ははっとこちらを見た。
目鼻立ちはそう変わらない様に見えるが、瞳の色がわずかに違う。確かこの色は元敵国の、今は同盟国の人間の色ではなかったか。
「急にお伺いして申し訳ありません。なにぶん昨日に決まったものですから」
思わず思考を働かせていると、おそらく70の半ばと思われる男性は、椅子から立ち上がり頭を下げてきた。俺も慌ててそれに習う。
身に付けているものは自分たちと変わらないが、立ち振る舞いは育ちの良さを感じさせるものだった。
不審に思っていると、男性は大きな荷物の中から、人間の頭なら軽く入ってしまいそうな位の箱を取り出し、俺を真っ直ぐに見据えた。
「私は今日、私と“英雄”の、そしてあなたとお兄さんの約束を叶える為に来ました」
思わず、頭が真っ白になった。
目の前の男は今何と言った?
遠回しではあるけれど、戦時中は敵国だった国の男が、兄を“英雄”だと言った。
混乱して沈黙した俺を、男性はただ静かな瞳で見つめてくる。
状況を理解した途端、ある仮説に背筋が泡立ち、思わず男性の襟首を掴みあげていた。
「あんた、まさか、砦の戦いで……」
「はい。あなたのお兄さんと…“英雄”と相対した軍にいました」
思わず拳を握りしめ振りかざした。しかしそれを前にしても男性の瞳は静かなまま変わらない。
ここで暴力沙汰を起こせば息子夫婦にも迷惑がかかると必死に自分を押し止め、掴んでいた手を離した。
八つ当たりするように乱暴に椅子に座る。男性も浮き上がっていた腰を下ろした。
「…今日は何の用で?」
「先程お話したとおり、私と彼との、彼とあなたの約束を果たすために」
そう言って彼は布に包まれた箱を俺のほうに押し出してきた。
箱はちょうど彼と自分の中間点にある。それを受け取るべきかどうか決めかねた。
迷っている俺を見て、男性は軽く目を閉じると、一度深呼吸をしてから目を開いて言った。
「……私は当時、対砦戦の司令官を勤めていました。あの砦を落としたのは私です」
膝の上の手が瞬時にこわばった。
相手を見てはいけない。見てしまったが最後、自分は何をするか――
男性は怯むことなく言葉を紡いでくる。
「1ヶ月で落ちると言われていた砦に4ヶ月を要して、私は不思議でならなかった。何故あのような状況であれほどの士気が持ったのかと。
そんな時、私の前に一人の青年が運び込まれてきた」
男性は思い返すように椅子にもたれ天井を見る。俺は斜め下の床から顔を上げることができない。
「彼は酷い怪我をしていた。今の発展した技術でも1時間以内に手術しなければ五分五分と言う、酷い有様だった。
呼吸はもう浅くなり始めていたし、何よりも腹部に出血が見られた」
男性はそこで顔を戻し、俺を真っ直ぐに見据えてきた。
「その青年が、君のお兄さん――“英雄”その人だった。
あの時のことはよく覚えています。“英雄”の顔は既に知っていたけれど、あんなに年若いとは思っていなくて。思わず当時の部下に本当に彼が“英雄”なのか尋ねたほどでした」
何とか気を落ち着かせ男性を見る。彼は手を組み視線を目の前の箱に落としていた。その静かな瞳は箱を見ているようで、でも視点は合っていなかった。
「彼が息のあるうちに何言か話す機会があって、その時に彼が言っていた。“弟との、必ず帰るという約束を守れなかった”、とね。
私はその時彼に約束したんです。“必ずや、君を弟のもとに連れて行く”と」
そう言って彼は俺と彼の境界線のように鎮座していた箱を俺のほうに押し出してきた。中が何なのかおぼろげに理解できて、でも脳はそれを否定しようと格闘している。
「彼の遺体を火葬が一般的に行われている土地に秘密裏に運び出してそこで火葬してもらったんです。
…この地に埋葬してやってくれませんか、彼の遺骨を」
決定打が下された。
これまで兄の死を受け止めた気でいたのに、心のどこかでそれを否定していた自分がいた。
兄の遺体が見付からないことがその不安定な根拠になっていたというのに――
我知らず震える手で箱に触れる。それは見た目どおりの温度しかなくて、この中にあの温かかった兄がいるとは思えなかったが、男性の瞳は嘘を言っているようには見えなかった。
包まれた布を解き、箱を取り出す。古くはなっているがしっかりとした箱で、良い材質を使っているのは自分にも分かる。
恐る恐る蓋を開いてみる。そこには白磁の壷がひとつ。土葬が主な土地に育った自分には馴染みは無いが、おそらくこれが――骨壷。
情けなく震える手でそれを取り出してみる。封を施された、手にしっかりとした存在感をもたらす壷。
骨壷を膝の上に下ろし、呆然とそれを見やる。それは人の頭よりも少し大きい位しかなくて、こんな中に兄がいるのかと半信半疑になっている自分がいる。
ふと、あの日抱きしめた兄の体温を、そして、こちらを振り向かずに手を振っていた兄の姿が脳裏に浮かんで
ああ、これは兄なのだと、兄は死んだのだと。頭ではなく心が納得した瞬間、
「約束、やっと果たしてくれたんだな」
あのラジオ放送の時以来流すことの無かった、兄の部下たちに会った時でさえ流れなかった涙が、ようやく零れた。