一歩でも遠くへ
「お戻りになられましたか!」
部屋に戻ると、年若い士官が俺達――というより“英雄”を待っていた。
副官の俺でさえも姿が見えず、さぞや肝を潰す思いをしたのだろう、その顔は少し青ざめている。
「すまんな、少し考え事をしていた。一体何の用だ」
隊長が冷静に問いかけるのに、士官は息を整え、信じられない発言をした。
「先程、敵軍前線に援軍と大量の兵器が持ち込まれたという連絡が入ったんです!
それから中将が先程から見当たらなくて……」
「中将が? ――っあの野郎!
まだそう遠くへは行っていない筈だ、見張りの兵たちに伝えろ!
何としても中将を……いや、脱走兵を捕まえるんだ!」
「は、はい!」
隊長の剣幕に押されて、青年士官は駆け出して行った。
その姿が完全に見えなくなった後、隊長はすごい勢いで机を蹴った。
薄かったとはいえ凄まじい音をたてて机の側面が割れる。
「畜生!アイツ、俺の小隊を潰しやがったくせに!自分一人だけ逃げるだと?そんな事許してやるものか!」
その声や言葉は普段の飄々とした感じからはかけ離れていて、俺は口を挟めないまま隊長が落ち着くのを待つしかなかった。
そのまま30分はかかっただろうか、廊下から走る音が聞こえてきて、先程の士官が顔を出した。
「自国側の領土で捕らえました!抵抗されえて負傷者は出ましたが、軽傷です」
「わかった、すぐ行く。絶対に逃がすなよ。来い」
最後の命令の時だけこちらを向いて、隊長は士官の後について歩き始めた。その後を慌てて追いかける。
その時に一瞬見えた表情があまりにも冷たくて、俺は隊長の背から顔を背けた。
「こちらです」
士官が案内してきた会議室には、確かに中将が捕らえられていた。
猿轡を噛まされ、それでも縄を振りほどこうと必死にもがいている。
「隊長、何とか捕らえましたよ。見かけ通りサルみたいにすばしっこく動くから捕まえるのに苦労しました」
「逃げ切る前に何とか間に合ったようだな」
報告をした男がこちらに軽くブイサインを送ってくる。彼も小隊の中で生き残った一人なのだ。俺もそれにブイサインで返した。
「さて、答えてもらいましょうかね、脱走兵? まぁ聞くまでも無いことでしょうけど」
元同じ小隊の友人が猿轡を外し、ナイフを突きつける。
中将は味方を探して周りを見回すが、全員その様子をただ眺めているだけだ。
味方がいないことを悟ったのか、中将は奇声を発しながらさらに暴れ出した。
「……ま、正直コイツに時間を割いている場合じゃない。使わない倉庫にでも放り込んでおけ。
あぁ、縄じゃなくて鎖で縛って猿轡もしてな。世話の仕方はお前らの班に任せる」
「了解しました」
叫びながら引きずられていくアイツも哀れかな、とも思ったけれど、死んでいった仲間の姿にそれも遠退いていった。
「中将が離反、てことは、実質この砦の司令官には隊長が納まる事になるんじゃ……?」
「――そういう事になるんだろうな。状況から考えれば3日天下だが」
その言葉に、現実が一気に押し寄せてきた。
「もう、もたないんですか、この砦?」
「今でさえ押されているのに、中将の脱走の所為で士気は急降下、しかも敵軍の大幅な増援。援軍も期待できそうに無いしな。無理としか言いようが無い」
冷静なその言葉に、俺はただうな垂れるしかない。
決定的に大きく差が開いているのだ。ずっと前線で戦ってきたのだからそのくらいは分かる。
「――だが、ただ死には勘弁だ。上もいなくなった。後は一般人の俺達だけだ。うるさいことを言う生粋の軍人はいない。
明日の朝見張り以外の全軍を集めろ。3日天下、存分に使ってやる」
そう言って、隊長は先刻壊した机に向かって何か書類を作り始めた。
手伝えることもなさそうなので、一礼して退出する。
部隊長に明日のことを伝えなければならないし、自分がいてもきっと邪魔になるだろうから。
自分の頬を一発叩いて、どこか騒がしい砦の中を走り始めた。
翌朝、待機しているように言われたテラスに小隊仲間が近づいてきた。
やはり何人かの脱走兵が出たらしい。友人の隊からも行方不明者が出ているそうだ。
中将はどうしたのかと聞けば、構っている暇は無いときた。
飢え死にするかもしれないが、まぁそれはそれだ。
「隊長は?」
「それが、先にいけって言われて。先に部隊長たちと会議するらしい」
朝俺にそれだけを告げてさっさと歩いていった後姿を思い出す。一睡もしていないだろうに、その歩みには狂いが無かった。
そんな話を続けている間に広場に兵士が続々と出てきて、隊長がテラスへやって来た。
「大佐、脱走兵は5番倉庫に収容しました」
「わかった。ご苦労だったな」
友人はそれを伝えに来ただけだったのか、すぐにその場から消え去った。
隊長は兵士たちに自分の姿が見えるように立った。一度集まった兵士たちを見回し、大きく息を吸い込む。
「昨夜中将が脱走したという話はみんな聞き及んでいることと思う。そして、敵軍前線に援軍が派遣されたことも。
この砦、いや、この国にもはや勝ち目は無い。この砦もあと3日持つかどうかだ。
……だが、俺達は逃げることを許されない」
その言葉に兵士たちが皆一様にうな垂れた。
それを見ながら、しかし表情を変えることなく隊長は言葉を紡ぐ。
「俺達には、もう死への道しか残されていない。――だが、俺はただ死にするつもりはない」
一段と低くなった声に、兵士たちが顔を上げるのが見えた。俺も隊長の後姿に見入る。
全員の目線が自分に向けられていることを確認してから、隊長はもう一度口を開いた。
「国外へ逃亡している者も多いと聞くが、まだ危険な区域に残っている住民は多いはずだ。
多くの兵はこの拠点で足止め、一部の者が他拠点の兵の目を掻い潜り、住民たちに非難を促す。
どちらにしても死の危険からは免れられない。だが、俺は無駄に命を捨てる気はない。
頼む、どうか。一日でもいい。一人でも、一歩でも戦火から遠ざけられるように。その命を盾にしてくれ」
そう言って隊長は手すりに頭を擦りつけた。そんなに強く押し付けては怪我をしてしまうのに。
止めたいけれど、動くことは出来なかった。
どのくらい経っただろう、そんなには経っていないのだろうが、何か地鳴りのような雄叫びが聞こえた。
ふと顔を広場に向けると、兵士たちが腕を掲げ賛同するかのように雄叫びを挙げている。
隊長はまるでそれに応えるように、右腕を強くあげた。
嗚呼、と不意に。
ポツリと思った。
必要だったから、ただそれだけなのだろうけれど。
――彼は、本当に“英雄”になってしまった。
テラスから臨む空には、ちょっとの雲と、土埃と、どこか物悲しい雄叫びが舞うばかりで、鳥の一羽も見つけることは困難だった。