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「聖バレンタイン・デー」

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 とっさに身を引いたが、鼻先を掠めた王子の手は、光の口元から煙草を奪い取っていた。
 火のついたそれを自分の手のひらに押しつける。
 皮膚の焼ける匂いに光は眉を寄せた。
 ――克紀め。
 王子を光にけしかけておいて、克紀はキッチンへ姿を消していたが、王子は煙草を消すだけで「片付け」を終える気はなさそうだった。焼けた手のひらを握り込んで、光に殴りかかる。
 普段へらへらしていても王子の身体能力は光よりも高い。ただその身体の小ささと軽さが力を制限しているだけだ。
 グラスにジュースを注いで戻ってきた克紀は、グラスを持つ手とは反対の手に物騒なものを握っていた。
 「それ」を王子に投げてよこす。
 「腕一本、もらっとこうか。利き腕は残していいから」
 克紀の気まぐれは王子のそれよりずっと質(タチ)が悪い。何がお気に召さなかったのか、利き腕ではないとはいえ、気まぐれに腕一本もっていかれたのでは、身体がいくつあっても堪らない。
 しかし、スリッパで毛足の長い絨毯に立つ光は、それだけで素足の王子より圧倒的に不利だった。
 広いとはいえ室内で、家具に対する遠慮も光の動きを鈍くしていた。
 王子はソファからクッションを一つ掴むと、光に投げつけ、続いて飛びかかった。
 軽いとはいえ、勢いよく飛びついてきた王子を抱き留めて、光はその場に倒れ込んだ。
 王子は光の胸のあたりに馬乗りになると、片足で左腕を押さえつけ、もう片足で顎を喉元から押さえつけた。
 クッションを光の左肩に当て、その上から拳銃を突きつける。
 遠慮も躊躇(ためら)いもないムダのない動きだ。
 その引き金を引くのにも、もう一秒とかからないだろう。
 光は自由になる右手で王子の足首を掴んで押し戻した。
 「松本――」
 王子は光を見下ろしてにやりと笑った。
 そして。
 ばすん。
 というような音がしてクッションの中身であろう羽毛が舞い上がった。
 がしゃん、とどこかでガラスの割れる音。
 「驚いたな」
 克紀は本当に驚いているようだった。
 手元には割れ残ったグラス。
 王子は、光に馬乗りになったまま身体を反らし、銃口を克紀に向けて構えていた。
 松本王子を軽く見ていたわけではない。だから薬を飲ませて時間をかけて念入りに暗示をかけたのだ。