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雪山奇談

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 震える楽瞬を見て、虎が口を開いた。言葉になる前の、恨みと憎しみが、咆哮(ほうこう)となって伝わってきた、と楽瞬は言った。恐ろしくて耳をふさいだが、逃げる時にケガをした右腕が少し遅れてしまったらしい。
 それから、封印の布を取ると楽瞬は聞こえるようになってしまった。人間や、人ならぬ物の恨みの声が。
 恨みや憎しみの声が嫌でも耳に入るというのは、どんな気持ちがするものなのだろう。そして、そんな物を聞きながら、なぜ楽瞬は無邪気なままでいられるのだろう。小さい背を見つめ、香桃は唇を噛んだ。
 毛に覆われた、楽瞬の虎の耳がピクリと動いた。
「よく聞こえるよ。恨みのうなり声が。それが空誘さんのか氷雪姫のかは分からないけれど」
「明日、明るくなったら行きましょう、楽瞬様」
 そう言って、香桃は窓を閉め、ずれたままの布を結び直してあげた。

 氷のように冷たい朝の空気の中でも、厚着をして山登りをすればさすがに体は熱くなって汗も出る。まるで分厚い綿を敷き詰めたような雪には、獣の足跡すらなかった。
「香桃、こっち〜!」
 楽瞬は片耳を出したまま、迷いのない足取りで進む。カンジキの跡がぽんぽんと雪の表面に残っている。
「それにしても、こんなに積もっていては…… 彼を見つけるのは大変かも知れませんねえ」
「でも、この辺りのはずだよ。ほら、あれ!」
 斜面に、足を滑らせたような跡があった。
 ひょっとして空誘の体が埋もれているかも知れない。楽瞬が雪に両手を着いた瞬間、ボサッと大量の粉を落としたような音をさせ、楽瞬の手元に大きな穴が開き、彼は頭から落ちていった。
「うにゃあ!」
「大丈夫ですか、楽瞬様!」
 主人を助けられなかったことを軽く悔やみながら、香桃は穴の中をのぞきこんだ。
 穴は広く、はしが暗くて見えない。ごつごつとした地面に座り込み、頭をさすっていた。その前に、よく見えない物の、大きくて細長い物が横たわっている。
「人?! ひょっとして空誘さんですか」
楽瞬が慌ててはいよる。
「息してる! 生きてるよ!!」
 その言葉に香桃は急いでカンジキを脱いで、穴の中にすべり降りた。
 空誘の首に手を当てると、体は冷えている物のかすかな脈が感じられた。背中に大きな傷がついていた。
「……違う」
 ポツッと楽瞬が呟いた。
「確かに、恨みの声はまだ聞こえる。でも、近くまでわかった。これは空誘さんの恨みの声じゃない」
「だとしたら、思い当たるのは一つしかありませんわ」
 穴の外で、風によくにたうめき声がした。
「氷雪姫」
 外に出ると、香桃は目を細めた。
 降る雪と地表から舞い上がる雪が混じり合う。その霧の中、黒い人影が浮き上がっていた。
 黒い犬のような顔に、猿のような手。全身を覆う長い毛はゴワゴワと絡まり、まるで細く切った茶色い布が垂れ下がっているようだった。
「姫、というわりには美しくありませんね」
「あれは氷雪姫じゃない。氷雪鬼(ひょうせつき)だ。音は同じだけど、ぜんぜん別の妖怪だよ」
 穴の中からひょこっと楽瞬が顔を出す。
「長く生きた生き物が何かの原因で妖怪化した物。もとがどんな動物でも、吹雪みたいに冷たい声でなくから氷雪鬼」
「そんな事はいいから、戻ってください。危ないじゃないですか!」
「大丈夫だよ! ここから出ないから」
 氷雪鬼が吠えた。
 香桃は視線を鬼にむける。
 ヒュ、と木枯らしの音を立て、ムチが解かれた。短く息を吐き、鬼との距離を詰めようとし、盛大に尻餅をついた
 思わずめくりあがった着物の裾を押さえる。
「ああ! カンジキが邪魔!」
 足首を縛る縄を切る勢いで邪魔な履物を脱ぐ。
 腹に響くような鳴き声を鬼があげた。岩を削ってできているような灰色の武骨な手が香桃に振り上げられる。
 香桃は、最小限の動きで手首をひねった。その動きはムチを伝わり、その先端を跳ねあげた。
 ピシリと硬い物にヒビが入ったような音を立て、ムチは氷雪鬼の鼻の下を撃ちつけた。少し間抜けではある物の、れっきとした人体急所の一つを。
 氷雪鬼は、攻撃を中止して手で顔を押さえる。
 香桃は、真上にムチを放った。枝に先端がからみついたのを確認する。
 早くも衝撃から立直った鬼は、両腕を振り上げ、香桃につかみかかろうと突進してきた。
歯の間からもれるうなり声が、白い霧となって空中に溶けていく。
 草履の爪先で、香桃は足元を探る。さっき倒れたおかげで、香桃の周りだけ雪がある程度固まっている。
 香桃はムチの柄を握ったまま、地面を蹴りあげた。香桃の体は鬼の両腕をすりぬけ、長い毛に覆われた肩を蹴りつけ枝に飛び乗った。小さな雪崩のように、どさどさと雪が落ちる。
「吐く息が白いという事は、呼吸をしているという事でしょう」
 解いたムチを輪に束ねる。顔の雪を払い除けながら、香桃の姿を探す氷雪鬼の背が見える。
 香桃は枝から飛び降りた。その足が雪に触れるより先に、その輪を鬼の首に巻き付け、背中にぶらさがる。
「呼吸をしているということは、それを止めれば死ぬという事です」
「香桃!」
 今までおとなしく穴の中で観戦していた楽瞬が、雪に足をとられながらモタモタと歩みよってくる。
「お戻りください、楽瞬様!」
「殺しちゃダメだ、香桃! その背中を見て!」
「背中?」
 体をわずかに放し、香桃は鬼の背を見る。ちょうど肺の後に、小さな傷があった。もう半分腐りかけ、傷口のふちが青灰色になっていた。
「これは一体……」
 ビリビリと震えが伝わるほどの勢いで、氷雪鬼は咆哮をあげた。
 ふらりと氷雪鬼の体が傾く。嫌な予感を感じて、鬼の体から飛び退こうと思ったが、一瞬だけ遅かった。
 香桃の細い体は、人の数倍はある体重と後に生える木の幹に挟まれた。
「ハッ……」
 ムチを落とし、香桃は崩れるように座り込んだ。 
 氷雪鬼の姿を目の端にとらえた、と思った瞬間、雪の中に叩きつけられた。雪のおかげで、体は痛く無いものの、殴られた頭が痺れ、視界がにじむ。口の中で血の味がする。
「クッ……」
 落ちたムチの柄に手を伸ばすが、指先が震えてなかなかつかむことができない。
「香桃!」
 楽瞬が歩いてくる気配がした。なんとか顔をあげると、楽瞬が頭に手を伸ばす野が見えた。
「いけません、楽瞬様! 私なら大丈夫ですから!」
 頭を飾っていた布が落ちる。人の左耳と、虎の右耳が現れた。人の耳はとがり、房飾りのような毛に覆われ、完全にもう片方の耳と同じになる。幼げだった大きな栗色の目は、金色をおび、瞳孔は針のように細くなる。氷雪鬼よりもするどい爪が、短く巻き上げられた裾の紐を切る。小さかった背は伸び、香桃を追い越した。
 楽瞬は、十六才ほどの青年になっていた。切り裂く牙と爪を持った半人半虎の青年に。
 氷雪鬼が口を開ける。牙が、香桃の首筋に突き刺さろうとする。
 雪を蹴立て、半獣の青年が走る。虎の爪が、鬼の頭を押さえ込んだ。
「本当だったら殺しちまってもいいんだがな。同じ山の者だ。見逃してやろう」
 少年の時よりも低い声で、半獣は言った。爪が氷雪気の傷をえぐる。血で染まった爪に、鈍ったやじりがつままれていた。
作品名:雪山奇談 作家名:三塚 章