雪山奇談
その村に入ると、旅人二人は長老の家に通され、暖かい汁物と干し肉という、質素だが精一杯のもてなしを受けた。
「こんな雪の日に旅など、難儀な事で」
長老が優しい笑顔をむけてくれる。
「うん、寒くて死ぬかと思った!」
汁物を冷ましながら楽瞬(ラシュン)は言った。六歳ほどの少年で、大人用の着物の裾や袖を巻き上げ、ヒモで結ぶという変わった服装をしている。それだけでなく、左耳の上から右耳を覆うように、斜めに頭に飾り布を巻いているせいで、右目と右耳が隠れてしまっている。
「この辺りに村があるとは聞いていましたが、何分(なにぶん)初めて来た道でして。夜になる前にたどりつく事ができて幸いでした。食事まで用意していただき、礼のしようもございません」
少年の少し後に座しているのは香桃(シャンタオ)。膝より上までしか丈のない、短い黒紫の着物という、若い女性にしては露出の多い格好をしている。
「しかし、お二人はどちらへ向かっておいでで?」
不審に思っていることを隠しきれていない長老の表情に、香桃は苦笑した。
吹雪になりかけの日に、家族とも恋人ともつかない女と子供の二人連れ。怪しく思われない方が怪しいという物。
「まだ小さいのですが、楽瞬様は詩歌官(しかかん)であらせられるのですよ。私は、その護衛をさせていただいております」
巷(ちまた)に散らばっている伝承、伝説、流行歌の類はそのまま民が何を思い、どう生きているかの鏡となる。それをまとめ、帝に謙譲をするのが詩歌官の勤めだった。
「だから、決められたあてはないのです。できる限りの村を回り、歌や伝説を集め……」
香桃の言葉を途切れさせたのは、遠くで何かを叩く鈍い音だった。「出して!」という女性の声と、はっきりと聞き取れぬなだめるような声。
「あれは?」
長老に問いかけた香桃を置いて、楽瞬はもう外へ飛び出していた。仕方なく香桃も後を追う。
外の空気は、頭が痛くなるほど冷え切っていた。細かな雪が絶えず視界を横切るせいで、前をいく楽瞬の輪郭がぼやけて見えた。
小さな背は、村の外れにある物置小屋らしき建物の前で止まった。
「出して、お願い!」
内側から、誰かが木戸を叩いている。外では、中年の男が物置の鍵をかけている所だった。
「これは一体?」
「おや、こんな季節に客人かい」
眉をしかめる香桃に、男は意外にも人懐っこい笑みを浮かべた。歓迎の言葉を述べてから、ようやく香桃の質問に答える。
「実は、羽房(ユーファン)の旦那が行方不明でな」
ちらりと視線が物置の中に向いた所をみると、それが閉じ込められた女性の名前らしい。香桃はそっと扉に近寄り、板の隙間から内を覗きこむ。
クワやスキを退かし、なんとか物置の中央に場所を作ったという感じだった。部屋の隅には火桶があり、それなりに温かそうだった。そして、真中に敷かれた布団に、羽房がうなだれて座っている。黒く長い髪から見える頬は蒼白く、具合が悪そうだった。
「旦那の名は、空誘(コンヨウ)というのだが、もう三日も帰って来ないのだ。冬の間、登ってはならぬ禁忌の山へむかったのを見たという者もおってな」
「えええっ! 雪山に入って、三日も?」
もう死んでいるんじゃないの? という言葉を、楽瞬は賢明にも飲み込んだようだった。
「たちの悪い風邪にかかったというのに、羽房は空誘を探しに行くと言って聞かんのだ」
「なるほど。それで閉じ込めているのですか」
とりあえず、理不尽な罰などではないのにほっとする。
「私が悪いのです」
聞こえてくる羽房の声は、涙を含んでいた。
「母の形見の首飾りを、空誘が壊してしまって。私も病のせいか、どうしても心が落ち着かなくて」
「つまりは、ケンカしたと。しかし、それだけで三日も家出なんて」
羽房に見えないのをいいことに、香桃は露骨に顔をしかめてみせた。随分と心の狭い男だ、というように。
「禁忌の山、と言っただろ」
口にするのもはばかられるというように、男は声をひそめた。
「あの山の近くには冬に男をたぶらかす妖怪がでるんだよ。氷雪姫(ひょうせつき)という。村の外に出たとき、その妖怪に出会ったとしたら、ふらふらと着いて行ったとしても不思議はない」
「なんだ、そんな事か」
楽瞬はパッと顔を輝かせた。
「だったら、僕達にまかせ…… ムグッ!」
香桃の細い指が、楽瞬の口を押さえた。
「それはお気の毒です。早く空誘さんが帰ってくるようお祈りをしております」
そのまま香桃は襟首をつかんで、ずるずると主を引っ張っていった。
夜になっても雪は降りやまず、枝や屋根から雪の落ちる音が時折聞こえてきた。燭台の油の臭いが薄く部屋に満ちている。
「なんで止めたんだよ、香桃」
楽瞬は不満そうに言った。
「妖怪の調査や退治も僕らの仕事のうちだろ?」
「もし、あの時に行くって言っても、村の人達に止められていましたわ」
暇つぶしに今まで書き溜めてきた伝承の束を読みながら言った。当然のことだが、人が立ち入ってはいけないから禁忌なのだ。村の者さえ禁止されている場所に、よそ者が入る事を許すはずがない。そもそも、見せるわけにはいかない。楽瞬が、妖怪の気配を探っている所を。
そして少しいじわるそうににやりと笑ってみせる。
「明日の朝にでもこっそりと探りにいけばいいのですよ」
「わあい、なんだか香桃といるとずるがしこくなれそう!」
主人は無邪気に笑った。
外で枝に風が切り裂かれる、悲鳴のような音が鳴る。
「氷雪姫…… たしか、嫉妬深い女の妖怪だ」
楽瞬は、香桃から紙束を受け取って頁(ページ)をくった。のぞきこみながら、香桃は呟く。
「氷雪姫は、気に入った男が憎んでいる女を殺すと言いますよ。もしかしたら、空誘さんは羽房さんを殺すように頼みに言ったのかも知れませんね」
「ええ? ちょっとケンカしただけで殺そうとするなんて」
「ひょっとしたら、ケンカはきっかけに過ぎないかも知れません」
もしかしたら、二人は前々から憎みあってきたのかも知れない。他人に、今日来たばかりの人間に分かるはずがない。
恨みというのは重く、沈む物なのだ。人の心はちょうど桶に酌んだ沼の水のようなもの。一見透明に見えても、かき混ぜてみるとヘドロが舞い上がる。
「どうかな」
楽瞬は窓に歩み寄った。窓を覆う木の板を持ち上げ、つっかい棒で支えて外をのぞく。
雪明りで外はほの白かった。雪が顔に当たるのも気にせずに、氷雪姫がいるという山を眺める。もしも、村人の予想が正しければ、空誘がそこにいるはずだった。
楽瞬はゆっくりと頭に手を伸ばす。そして頭に巻いた布をずらした。不思議な模様が刺繍された布から、隠れていた片耳が現れた。白い、虎の耳が。
「禁忌の山を登って…… まるで、楽瞬様のようですね」
楽瞬の場合、それは夜盗が原因だったという。夜盗は村を焼き払い、村人達が火に追われ、逃げ込んだのが禁忌の山だった。混乱の中で、村人達とはぐれた楽瞬がそこで出会ったのが、白い虎の神だった。神の生命は、周りに住む人間や環境に左右される。人の血と炎で聖地を汚された神は地に伏し、死のうとしていた。
「こんな雪の日に旅など、難儀な事で」
長老が優しい笑顔をむけてくれる。
「うん、寒くて死ぬかと思った!」
汁物を冷ましながら楽瞬(ラシュン)は言った。六歳ほどの少年で、大人用の着物の裾や袖を巻き上げ、ヒモで結ぶという変わった服装をしている。それだけでなく、左耳の上から右耳を覆うように、斜めに頭に飾り布を巻いているせいで、右目と右耳が隠れてしまっている。
「この辺りに村があるとは聞いていましたが、何分(なにぶん)初めて来た道でして。夜になる前にたどりつく事ができて幸いでした。食事まで用意していただき、礼のしようもございません」
少年の少し後に座しているのは香桃(シャンタオ)。膝より上までしか丈のない、短い黒紫の着物という、若い女性にしては露出の多い格好をしている。
「しかし、お二人はどちらへ向かっておいでで?」
不審に思っていることを隠しきれていない長老の表情に、香桃は苦笑した。
吹雪になりかけの日に、家族とも恋人ともつかない女と子供の二人連れ。怪しく思われない方が怪しいという物。
「まだ小さいのですが、楽瞬様は詩歌官(しかかん)であらせられるのですよ。私は、その護衛をさせていただいております」
巷(ちまた)に散らばっている伝承、伝説、流行歌の類はそのまま民が何を思い、どう生きているかの鏡となる。それをまとめ、帝に謙譲をするのが詩歌官の勤めだった。
「だから、決められたあてはないのです。できる限りの村を回り、歌や伝説を集め……」
香桃の言葉を途切れさせたのは、遠くで何かを叩く鈍い音だった。「出して!」という女性の声と、はっきりと聞き取れぬなだめるような声。
「あれは?」
長老に問いかけた香桃を置いて、楽瞬はもう外へ飛び出していた。仕方なく香桃も後を追う。
外の空気は、頭が痛くなるほど冷え切っていた。細かな雪が絶えず視界を横切るせいで、前をいく楽瞬の輪郭がぼやけて見えた。
小さな背は、村の外れにある物置小屋らしき建物の前で止まった。
「出して、お願い!」
内側から、誰かが木戸を叩いている。外では、中年の男が物置の鍵をかけている所だった。
「これは一体?」
「おや、こんな季節に客人かい」
眉をしかめる香桃に、男は意外にも人懐っこい笑みを浮かべた。歓迎の言葉を述べてから、ようやく香桃の質問に答える。
「実は、羽房(ユーファン)の旦那が行方不明でな」
ちらりと視線が物置の中に向いた所をみると、それが閉じ込められた女性の名前らしい。香桃はそっと扉に近寄り、板の隙間から内を覗きこむ。
クワやスキを退かし、なんとか物置の中央に場所を作ったという感じだった。部屋の隅には火桶があり、それなりに温かそうだった。そして、真中に敷かれた布団に、羽房がうなだれて座っている。黒く長い髪から見える頬は蒼白く、具合が悪そうだった。
「旦那の名は、空誘(コンヨウ)というのだが、もう三日も帰って来ないのだ。冬の間、登ってはならぬ禁忌の山へむかったのを見たという者もおってな」
「えええっ! 雪山に入って、三日も?」
もう死んでいるんじゃないの? という言葉を、楽瞬は賢明にも飲み込んだようだった。
「たちの悪い風邪にかかったというのに、羽房は空誘を探しに行くと言って聞かんのだ」
「なるほど。それで閉じ込めているのですか」
とりあえず、理不尽な罰などではないのにほっとする。
「私が悪いのです」
聞こえてくる羽房の声は、涙を含んでいた。
「母の形見の首飾りを、空誘が壊してしまって。私も病のせいか、どうしても心が落ち着かなくて」
「つまりは、ケンカしたと。しかし、それだけで三日も家出なんて」
羽房に見えないのをいいことに、香桃は露骨に顔をしかめてみせた。随分と心の狭い男だ、というように。
「禁忌の山、と言っただろ」
口にするのもはばかられるというように、男は声をひそめた。
「あの山の近くには冬に男をたぶらかす妖怪がでるんだよ。氷雪姫(ひょうせつき)という。村の外に出たとき、その妖怪に出会ったとしたら、ふらふらと着いて行ったとしても不思議はない」
「なんだ、そんな事か」
楽瞬はパッと顔を輝かせた。
「だったら、僕達にまかせ…… ムグッ!」
香桃の細い指が、楽瞬の口を押さえた。
「それはお気の毒です。早く空誘さんが帰ってくるようお祈りをしております」
そのまま香桃は襟首をつかんで、ずるずると主を引っ張っていった。
夜になっても雪は降りやまず、枝や屋根から雪の落ちる音が時折聞こえてきた。燭台の油の臭いが薄く部屋に満ちている。
「なんで止めたんだよ、香桃」
楽瞬は不満そうに言った。
「妖怪の調査や退治も僕らの仕事のうちだろ?」
「もし、あの時に行くって言っても、村の人達に止められていましたわ」
暇つぶしに今まで書き溜めてきた伝承の束を読みながら言った。当然のことだが、人が立ち入ってはいけないから禁忌なのだ。村の者さえ禁止されている場所に、よそ者が入る事を許すはずがない。そもそも、見せるわけにはいかない。楽瞬が、妖怪の気配を探っている所を。
そして少しいじわるそうににやりと笑ってみせる。
「明日の朝にでもこっそりと探りにいけばいいのですよ」
「わあい、なんだか香桃といるとずるがしこくなれそう!」
主人は無邪気に笑った。
外で枝に風が切り裂かれる、悲鳴のような音が鳴る。
「氷雪姫…… たしか、嫉妬深い女の妖怪だ」
楽瞬は、香桃から紙束を受け取って頁(ページ)をくった。のぞきこみながら、香桃は呟く。
「氷雪姫は、気に入った男が憎んでいる女を殺すと言いますよ。もしかしたら、空誘さんは羽房さんを殺すように頼みに言ったのかも知れませんね」
「ええ? ちょっとケンカしただけで殺そうとするなんて」
「ひょっとしたら、ケンカはきっかけに過ぎないかも知れません」
もしかしたら、二人は前々から憎みあってきたのかも知れない。他人に、今日来たばかりの人間に分かるはずがない。
恨みというのは重く、沈む物なのだ。人の心はちょうど桶に酌んだ沼の水のようなもの。一見透明に見えても、かき混ぜてみるとヘドロが舞い上がる。
「どうかな」
楽瞬は窓に歩み寄った。窓を覆う木の板を持ち上げ、つっかい棒で支えて外をのぞく。
雪明りで外はほの白かった。雪が顔に当たるのも気にせずに、氷雪姫がいるという山を眺める。もしも、村人の予想が正しければ、空誘がそこにいるはずだった。
楽瞬はゆっくりと頭に手を伸ばす。そして頭に巻いた布をずらした。不思議な模様が刺繍された布から、隠れていた片耳が現れた。白い、虎の耳が。
「禁忌の山を登って…… まるで、楽瞬様のようですね」
楽瞬の場合、それは夜盗が原因だったという。夜盗は村を焼き払い、村人達が火に追われ、逃げ込んだのが禁忌の山だった。混乱の中で、村人達とはぐれた楽瞬がそこで出会ったのが、白い虎の神だった。神の生命は、周りに住む人間や環境に左右される。人の血と炎で聖地を汚された神は地に伏し、死のうとしていた。