恋するワルキューレ 第三部
「短期間でスピードを上げるには、ローラー台でのポジションとペダリングの見直しが一番効果的なんです。実走だと信号や回りの人に注意しなくてはならないので、意外とペダリングがおろそかになってしまうんです。ローラー台ならペダリングに意識を集中できますから、フォームの改良にはこれが一番なんですよ。
それにローラー台だけじゃありません。パワーメーターも使います。速くなるにはこれも欠かせない機材ですからね」
「パワーメーター?」
「ええ、このホイールを見て下さい。ハブの部分が大きくて太いでしょう? ここにパワーを計測するセンサーが内蔵されていて、人間の出力をワット数に換算して教えてくれるんです。これは”Powertap”《パワータップ》というメーカーのもので、ワットも正確に計測できますし、価格も安くて練習に使うにはピッタリですよ」
“彼”がパワーメーターの効能を自信を持って語る姿を余所に、裕美はマドンにセットされたホイールをいぶかしそうに眺めていた。
”Powertap”との黄色いロゴが書かれたハブは確かに太くゴツイ。重量もかなりありそうだ。
「…………。店長さん、良く分からないんだけれども、どうしてセンサーを付けて速くなるのかしら? 速く走るんだから、この大きいハブにモーターとか電池が入っているんじゃないの? “パワー”って言うくらいだもん!」
「……裕美さん、流石にロードバイクにモーターを付けるのは反則でしょう……」
「それにこのホイール、ちょっとデザインが……。スポークもタイヤも全部真っ黒なんだもん。わたしマドンに付いていたホイールを変えたくないなあ……」
裕美のマドンに装備されているホイールは、”Bontrager”《ボントレガー》の”Aeolus”《アイオロス》という名のディープリム・ホイールだ。
リムと呼ばれるホイールの外周部が広く、「ミスター・ドーナッツの“オールド・ファッション”みたいね」とは裕美が初めてこのホイールを見た時の言葉だった。
ドーナツの様な形をしているのは、外周部分のリムを広くすることで空気抵抗の原因となるスポークの露出部分を減らすためだ。特にアイオロスは前後ともに16本と極めて少数のスポークで構成されており、数あるディープリム・ホイールの中でも最も空力特性に優れたホイールでもある。
もっとも裕美は、『アイオロス』というギリシャ神話の風の神に由来する名前と、その大きなリムにヴィーナスの赤い薔薇をふんだんに描けるという理由で気に入ったに過ぎない。
裕美が30万円もする高級カーボン・ホイールを買うにも関わらず、その空力性能云々を全く考慮していないことに、“彼”は少なからずショックを受けたのだが、やはりまだまだ“試練”は続くのだった……。
「あの――、裕美さん……。このパワーメーターは練習の時だけで構いませんから使ってみませんか?」
「だって店長さん、どうしてメーターを付けるだけで速くなるのかしら? 車だってスピードメーターはあるけど、別にそれで速くなるなんてありえないわ?」
「それはですね、このパワーメーターでフォームやペダリングの善し悪しをチェックすることが出来るんですよ。スピードメーターだけだと、風や坂の影響を受け易くて、フォームを変えた効果というのを比較するってことが難しいんです。まずは論より証拠です。裕美さん、ちょっとこのローラーに乗ってみて下さい」
裕美はしぶしぶローラー台にセットされたマドンのペダルを回してみた。しかし固定されたローラー台の上でタイヤが回るだけだ。前に1cmたりとも進むものではない。
これじゃあ、カゴの中のハムスターと同じだわ……。
裕美は心の中で嘆くが、彼はそんなことをお構いなしにローラーを回させ続けた。
「裕美さん、ちょっとサイクル・コンピューターを見て下さい。”Power”と表示されているでしょう? これが裕美さんのペダルを踏む今のパワーです」
その数値は130W、145W、110W……と、裕美が踏むペダルの力の入れ具合と回転数で目まぐるしく変わる。確かにペダルを踏むパワーを表示しているようだ。
「裕美さん、ちょっとサドルの前の方に座ってみて下さい。そうそう、ペダルを踏む力はなるべく変えないようにして……」
裕美は彼の指示の通りポジションを変えてみた。すると128W、120W、107Wと心なしかパワーが下がっているように感じる。
不思議に思った裕美は彼の指示を待つまでもなく、今度はサドルの後ろの方に座ってみた。すると135W、138W、147Wと数字が今までよりも上がっているのだ。
それは決して数字の間違いではない。クラシック・バレエを習っていた裕美は手足を大胆にかつ繊細に動かすために、筋肉の動きを察知するセンサーが他人よりちょっと優れている。そのセンサーが筋肉に確かな負荷がかかっていることを教えてくれた。
座る位置をちょっと変えただけで、腰やお尻の筋肉も発動するようになってパワーが確実に上がっている。スピードも時速3キロ程上がっているが、裕美の磨かれた“センサー”が、この3km/hの違いが決して小さいものではないことを教えてくれている。
「裕美さん、どうでしょう? 違いが分かりますか?」
「うん、全然違う! かなり良い感じだわ。上手く言えないけど、体の動きが前と違うの」
「それは良かったです。ワット数も少し上がっている様ですし、上手く筋肉が使える様になったんでしょう。初心者の方はポジションをちょっと変えるだけでパワーが上がることが少なくないんです。パワーメーターを使ってローラーを回す一番の目的は、裕美さんが最も効率的にパワー出せるポジションとペダリングフォームを見つけることです。だから少し我慢してローラーで練習してみて下さい」
「分かったわ。でも、ポジションを変えるのはサドルだけで良いのかしら?」
「もちろんそれだけではありません。ハンドルやステムの長さを調整する必要がありますから、これから説明します……。
それから裕美の練習が始まった。
毎日1時間、裕美はマンションの中でひたすらローラーを回し続けた。
無論、ただ力任せにローラーを回すだけの練習ではない。サイクル・コンピュータに表示されるワット数、ケイデンズを常にチェックしながら、全身の感覚を鋭敏にし、最も効率的なポジションとペダリングフォームを模索しながらの練習だ。
彼からのアドバイスでは、もう少しハンドルを遠くした方が背中やお尻の筋肉を使い易いかも知れないということだった。実際、裕美がローラー台でワット数やスピードを比較した結果、確かに彼の言う通りハンドルを遠く、前傾姿勢を強くした方が良い数値が出たのだった。
それにローラー台での練習はペダリングの研究だけではない。箱根の実戦に備えて、様々なフォームを習得する必要があった。
作品名:恋するワルキューレ 第三部 作家名:ツクイ