恋するワルキューレ 第三部
まずは茅ヶ崎から小田原までの平地区間を想定しての練習だ。この相模湾沿いの完全フラットの区間での高速走行を維持するため、空気抵抗の低いフォームで走る必要がある。この前傾姿勢を深くしハンドルの下のドロップ部分を握るポジションは、ロードバイクに慣れない人にとってはちょっと窮屈な姿勢なのだが、幸いバレエで身体の柔軟性も鍛えた裕美にとっては、それ程難しいものではなかった。ただこのフォームも無闇に形だけ真似るものではない。パワーメーターで、出力ワットをチェックしながらの練習だった。
次には箱根旧道の急坂を想定し、ロードバイクの前輪を高くした状態でのペダリングだ。箱根旧道は斜度10%を超える急坂が数多くある。斜度10%超とはローラー台に乗る際に、前輪に10センチから15センチもの雑誌を積み上げた状態がそれに近い。しかしそれだけ前輪が“浮いた”状態では、平地で走る時と同じポジションで走っても十分にパワーを出すことなど出来ない。実際、“聖地”と呼ばれる近隣のヤビツ峠と比べ、箱根旧道を走るローディーはかなり少ない。単に斜度が厳しい、キツイという理由ではない。急坂に合わせた異質なポジションでトレーニングを積んでも、その効果が低いためだ。
しかし裕美はこの箱根旧道の急坂に対応したポジションを習得する必要がある。もちろんこちらもローラー台で最も効率的にパワーを出せるペダリングを研究してのものだ。
最初は“つまらない”、“退屈”と、ローラー台での練習を嫌がっていた裕美だが、次第に面白く感じ始めていた。サイクル・コンピュータの数値を常にチェックし、体のセンサーをフルに使って神経を集中する屋内トレーニングは、スポーツクラブにあるエアロバイクとは全く違う。ただペダルを回すだけの惰性的な練習と違い、『やるべきこと』が常にあったからだ。
それに“日焼け”も気にせず練習出来ることも、気に入った理由の一つだ。やはり女として日焼けは致命的な問題だし、練習に行く前の『日焼け対策』をする手間も省けるので、結果的に短い練習時間で効率的なトレーニングが出来た。
唯一外で走ることを許されたのは、『真っ直ぐ走る』練習の時だけだった。サイクリングロードの白線の上を高速で巡航する練習であったが、彼が言うには真っ直ぐ走ることはポジションやペダリングの改善にとても有効的だそうだ。真っ直ぐ走れないことは、ペダルに直線的に均一な力で踏めていない証拠で、踏む力が左右に逃げてバランスを崩してしまうからだと言う。
このように彼から指示された練習は、あくまでロードバイクを乗りこなすための『テクニック』を覚えるためのもので、あまり『キツい』練習はなかった。
裕美は当初、肉体を酷使する“ハード”なトレーニングを覚悟していたのだが、彼に言わせると人間の有酸素運動能力を短期間に高めることは不可能らしく、それよりも普段走るだけでは疎かになりがちな、ポジションの調整やペダリングの改善の方がずっと大きな効果があるらしい。
そう、最後のある練習を除いては……。
* * *
『サイクリングイベント』ジロディ箱根の当日、裕美はたった一人で、エンゾ相模川の『エイドステーション』にやってきた。
エンゾ相模川は『ジロディ箱根』等と、ツール・ド・フランスに並ぶイタリアのグラン・ツール『ジロディ・イタリア』からインスパイアされた名前を付けている。だがその実態は、暴走族の行為に等しい公道レースだ。
アイドルであるテルやユタはもちろんのこと、万が一の事態を考えれば、“彼”にさえこのレースに参加するよう頼むことさえ許されない。事故の際の刑事的な責任や、『ワルキューレ』の店長としての社会的な立場もある。裕美も覚悟を決めて独りで走るしかなかった。
既にエンゾ相模川とその中年オジサン達も店の前に集まってきている。もう走る準備は出来ているようだ。
相も変わらずエンゾは傲慢な面持ちで裕美を睨み付けてきた。
「ふん、女一人で良く来たじゃないか。俺達の神聖な『ジロディ箱根』を馬鹿にしやがって。実力の違いを見せつけてやるぜ!」
「女だからって甘く見ると痛い目に会うわよ。二度と公道で大きな顔をできないようにしてあげるから! あなた達、覚悟なさい!」
「ハハハ、口だけなら何とも言えるさ。実際にこの前のヤロー二人も居ないじゃないか? 『ジロディ箱根』は普通の奴じゃ完走すら出来ないからな。喧嘩を売ってくる奴も怖くて逃げてしまうのさ」
「「ワッハハハ……!」」
エンゾとそのオジサン達は裕美を嘲るように笑いだした。
「テル君やユタ君は実業団でも走っているのよ。自分たちの箱庭の中だけしか走られないあなた達とは違うわ。あなた達こそ実業団のレースに出たことはあるのかしら? 他のレースじゃ勝てないから、こんな“草レース”をやってるんでしょ!」
「“草レース”だと!? ふざけるじゃねー! この『ジロディ箱根』は日本最高峰のレースなんだよ!」
「どこが最高峰のレースよ!? 公道レースなんて違法行為よ! 暴走族と同じじゃない! そんなレースにプロや実業団の選手が出る訳ないでしょ! 弱い人達だけ集めて、自分が勝ちたいだけなんじゃないの?」
「う、うるせー!! 俺達は選ばれた人間なんだ! 革命家なんだよ! 日本の法律なんかをなあ、馬鹿正直に守ってる奴らなんかと走れる訳ねえだろ!」
図星を指されたのか、認めたくない実力のなさを指摘されたのか、エンゾやそのオジサン達の顔が紅潮し裕美に飛び掛からん勢いだ。
キキーッ! キーッ!
その時、ブレーキのスキール音が高く響いた。カーボンホイール特有のスキール音だ。
裕美の前に何台かのロードバイクが飛び込んで、エンゾ達の動きを止めたのだった。
あっ――!
「裕美さん、おはようございます!」
店長さん!
「裕美さん、ホント、お待たせしちゃってスイマセン!」
「今日は良い天気ですねえ。絶好のサイクリング日和すよ!」
テル君! ユタ君も!?
「裕美さん、こんな連中と関わっちゃダメじゃないですかー!?」
「そうですよ。これから『ジロディ箱根』とか言う『サイクリング』なんですからね。楽しい『サイクリング』が台無しですよ」
「店長さん!? それにテル君、ユタ君! どうして来たの? 美穂姉えに怒られちゃうわよ?」
「裕美さん、僕が二人に話したんですよ。だって後で裕美さんがエンゾに負かされたなんて知ったら、二人とも本当に殴り込みに行きかねませんからね。だから今日は二人にも来てもらったんです」
「そうですよ。裕美さんを、放っておける訳がないじゃないですか」
「俺達に任せて下さい。実力の違いを見せ付けて上げますから!」
「ありがとう……テル君、ユタ君。それに店長さんも……」
不安で胸が張り裂けそうだった裕美は涙が出そうになった。エンゾ達に負けまいと強気なふりをしていたが、相手は暴走族のような連中だ。女一人では何かされるか不安で仕方なかったからだ。
「あーっと、裕美さん、勘違いしないで下さいね。俺達今日はレースに来たんじゃありませんから。あくまで『サイクリング』に来たんですからね」
作品名:恋するワルキューレ 第三部 作家名:ツクイ