恋するワルキューレ 第三部
ラコックのブースの中央には赤い薔薇が咲き乱れる“ヴィーナス・マドン”が「販売用商品」としてディスプレイされていたからだ。
「ねえローラン、見て見て! “ヴィーナス・マドン”よ! 本当に販売出来る様になったんだ! 凄いうれしい!!」
「良かったネ、ヒロミ! ボクもウレシイよ!」
裕美はやや興奮気味に喜びの声を上げていた。なぜなら当初このヴィーナス・マドンは販売用商品ではなく、単なるステージ用の“小道具”としての扱いでしかなかったのだ。
実は裕美やラコックも当初からこのヴィーナス・マドンの販売を目論んでいたのだが、アパレル・メーカーであるラコックはジャージの販売は出来ても、ロードバイクを販売するノウハウもネットワークもないことから、このヴィーナス・マドンを販売することは当面見送らざるを得なかった。しかし今回の騒動を得てトレック・ジャパンとの提携が進み、トレックがこのヴィーナス・マドンの製造から販売までを引き受けてくれたことで、一気に、そして突然“ヴィーナス・マドン”のサイクル・モード・デビューが決まったのだ。
そしてあまりに唐突なこの決定を大田原氏は嫌な顔一つせず引受け、急遽このヴィーナス・マドンのためのディスプレイを設置し、Web広告やパンフレットを作成する等、販売に必要な仕事をこのサイクル・モードまでに間に合わせてくれたのだ。おそらく大多和氏も不眠不休の対応だったろう。そんな事情が分かるたけに裕美も喜びと同時に、ラコックのスタッフへの感謝の気持ちで一杯になる。
「大田原さん、ありがとうございます! わたし達のバイクの為に無理を聞いて下さって。わたしも本当にウレシイです!」
「いやーー、わたしとしても感無量ですよ。サイクル・モードでこのバイクを販売出来るんですからねーー! 多少の無理ぐらいは全然構いません! このヴィーナス・マドンもロワ・ヴィトンとのコラボということで全面的にアピールしていきますから、是非裕美さん達もご協力をお願いします」
「はい、もちろんです! こちらこそよろしくお願いします!」
「いやー、ありがとうございます。それでですねーー、今日北条さんに来てもらったのは、ウチのブースに来たお客様にこのバイクの説明をして欲しいからなんです。今日はサイクルウェアのショーもありますから、このバイクとジャージはかなり注目を集めますし、お客様もたくさん来るはずです。でもモデルの子達ではロードバイクの説明は出来ませんからね――。それでどうしても北条さんにこちらまで来て欲しかったんです。どうでしょう? やって頂けるでしょうか?」
「もちろんです! 喜んでお手伝いさせて頂きます! ねっ、ローラン! わたし達も頑張りましょう!」
「そうだネ。何としてもボク達のマドンをアピールしないとネ」
「ありがとうございます! それじゃあわたしはショーの準備がありますので、ブースの方をよろしくお願いします!」
「ハイ! 任せて下さい!」
こうして裕美とヴィーナス・ジャージのサイクル・モード・デビューが決まった。
この『サイクルモード』とは幕張メッセで行われる年に一度の自転車展示会のことだ。幕張メッセと言えば、まずモーターショーを思い浮かべる人が多いだろう。だけどこの『サイクル・モード』とモーターショーはちょっと様相が異なる。
モーターショーで自動車メーカーは『コンセプトカー』と呼ばれる実際に販売することはない“試作品”の展示がメインである場合も少なくない。これはモーターショーが各メーカーのイメージを高める広報的な要素を重視したイベントであるためだ。
しかしこの『サイクルモード』は違う。あくまで『売る自転車』の展示が全てであり、そこに来る人達は実際に展示されているバイクを本当に買うつもりで品定めに来ているのだ。
ロードバイクやマウンテンバイクの販売というのは少し特殊で、車等と異なり試乗もしない処か、店頭で商品を見ずに買うことが少なくない。特に高級バイク程その傾向が顕著で、フレームだけで30〜50万円もする高級バイクともなればカタログだけを頼りに購入するしかない。
これはロードバイクは車と違い、メーカーの数が非常に多くまた各メーカーが毎年モデルチェンジを繰り返すため、ショップも新しいバイクを全て仕入れることなど出来ないからだ。さらにロードバイクの場合、その人に合ったサイズのバイクを選ぶことが必須になる。どのメーカーも同一モデルで3〜5種類以上のサイズを用意するので、実際にショップが全てのモデルと全てのサイズを揃えることなど不可能なのだ。
なのでショップ側もお客様から注文があった都度、メーカーに発注し希望のモデルとサイズを取り寄せてもらうことになる。ちなみにメーカーやモデルによっては、ヨーロッパやアメリカから取り寄せる場合も少なくなく、客は数ヶ月も首を長ーくして待つこともある程だ。
そんな事情で実物を見ることさえできないロードバイクを見て、また実際に試乗させてくれる『サイクルモード』は買う側にとっても年に一度の貴重なイベントなのだ。なので売る側も必死であれば、それ以上に買う側も真剣だ。早朝から幕張までやって来て、何台も何台もロードバイクに試乗しようとする。
そんな熱いイベントだ。裕美も俄然気合が入る!
裕美は早速ヴィーナス・ジャージとミニスカートに着替え、ラコックのブースで開場を待った。ミニスカート姿の接客はちょっと恥かしいが、何と言っても自分がデザインをしたジャージとバイクの“デビュー”だ。恥かしいなんて言ってられない。
ディスプレイされたヴィーナス・マドンを見て期待に胸を膨らませる中、開場のアナウンスが鳴った。同時に沢山の人が会場の中に入って来る。
裕美が待ちに待った『サイクル・モード』のスタートだ。
「あのー、すいません。この赤い薔薇のロードバイクなんですけど……」
「はい、いらっしゃいませ。このトレック・マドンのヴィーナス・バージョンは期間限定の受注販売となっておりまして――」
「このジャージも限定販売なんですか?」
「いいえ、ジャージの方は随時販売しております。ご購入に関してはラコックの店舗やWebサイトでご確認をお願いします。こちらがそのパンフレットです」
「すいませーーん! この黒いジャージなんですけど……」
「あ、はい! こちらは“ファム・ファタール”というラコックのオリジナル・ジャージでして――」
裕美とローランは休む間もなくバイクとジャージを見に来たお客様達の対応に追われていた。大田原さんの言った通り『ラコック』の人気は上々の様だ。
特にヴィーナス・ジャージを着た裕美は注目を集め、レースクイーンやコンパニオン・ガールと間違われて写真を撮られることも多かった。もともとロードバイクのジャージはレースクイーンの衣装とほとんど変わらないので間違われるのも仕方ないことだが、裕美はあくまで普通の女の子でただのOLだ。モデルを務めたと言っても写真を撮られることに慣れている訳でもなく、まだちょっと恥ずかしい。
しかし恥ずかしいことではあるものの、自分がモデルとして注目され写真を撮られることは、女として嬉しい気持ちになることも否定できない。
作品名:恋するワルキューレ 第三部 作家名:ツクイ