恋するワルキューレ 第三部
ツバサも先程までの陽気はなく、手持ちぶさたのためか六角レンチをクルクルと回しているだけだ。
“彼”も裕美がデザインしたマドンナのジャージを眺めているだけで、ノートPCのモニターもタイムアウトのため画面は既に消えてしまっていた。
思いの丈は違えど、二人が今考えていることは裕美のことに他ならない。
「……ねえ、店長? 今度、美穂さんに頼んでみましょうよ。裕美さんに合わせて下さいってね――。美穂さんが言うなら、裕美さんも会ってくれるんじゃないですか――?」
「そうだな……。どうなるか分からないけど、美穂さんならな……」
「そうですよ! もし裕美さんがまた店に来てくれたら、みんなでワインでも飲んでパーッとやりましょうよ!? 裕美さんあれで結構イケる口ですから、美味いものとワインを用意すれば絶対ひょこひょこ出てきますって!」
「ハハハ……。そうかもしれないな……。美穂さんに頭を下げてお願いしてみるよ……」
* * *
「滝澤さーん、お疲れ様です! どうです? 何か手伝うことはありますか?」
トレック・ジャパンの浅野氏はサイクルモードの特設ステージ会場で撮影の準備に追われる“彼”に声をかけた。
「ああ、浅野さん、ありがとうございます。とりあえずツバサもいますから大丈夫です!」
「そうですか――、何も手伝えなくてすいません。昨日もエリカさんの接待とか色々頼んじゃいましてーー」
「ハハハ、仕方ありませんよ。浅野さんも忙しかったでしょうし。それに撮影は僕やツバサの方が慣れてますから気にしないで下さい」
「いやあーー、そう言って貰えると助かります! まあ撮影とかでわたしが手伝えることなんて何もないんですけどねえ。特に女性モデルの撮影なんて畑違いも良いとこでして――。まあそれにしても嬉しい限りですよ。こんなに人が集まってくれて」
浅野氏はいかにも自転車業界の営業マンらしい言い訳をしながら、感慨深げに会場に集まる観客を眺めていた。
この特設ステージで自転車アパレルメーカーによるサイクルウェアのショーが間もなく行わる予定なのだ。早くも会場では自転車業界の関係者やバイヤー達が席を埋め尽くている。今日のプレイベントでは一般客は参加していないため会場は比較的静かなものだが、席は全て埋まり立見客が出る程で関係者の注目度は極めて高い。
特に注目を集めているのがトレック・ジャパンのステージだ。
アメリカのチャリティ・オークションで5千万円もの値段が付いたコンテンポラリー・アートの巨匠、ダミアン・ハーストのレプリカバイクの発表に加え、ファッション誌CanCanのモデルでもある藤倉エリカがモデルを務めると言うのだ。その話題性の高さから自転車雑誌以外のメディアでも大きく取り上げられ、イベントでの注目度の高さは間違いなくNo.1と言って良いものだった。
「滝澤さん、どうですか? エリカさんの注目度合いは?」
「かなり高いと思いますよ。今日のステージも去年よりも断然人が多いですし、それに客層が今回はかなり違ってますね」
「客層まで分かるんですか?」
「ええ、自転車業界以外の人が多いと言うか、ファッション雑誌やアパレル関係の人も来てますね。僕も撮影で知った人を何人も見ましたよ」
「そりゃあ、ウチとしても嬉しい限りですよ。やっぱりエリカさんをモデルにお願いして正解でしたね」
「ええ、改めてエリカさんのネームバリューには驚かされますね。それに例のダミアン・ハーストのバイクもかなり注目されています。であのバイクを目当てに来た人も多いらしいですよ」
「いやあーー、良かったーー。後はエリカさんがステージでマドンナ・ジャージをアピールしてくれれば、ウチとしては文句なしの大成功ですよ。営業も忙しくなりそうだなあーー。しばらく休めそうにありませんよーー!」
浅野氏はまるでノロケ話をするかの様に笑いながら、「困った。参った」と言うのだから、思わず“彼”も釣られて笑ってしまう。
実際、浅野氏もこのサイクル・モードのため休む暇もないほど働き詰めのはずなのだが、それでもこのイベントの成功を見ては営業マンとして頬が緩まざるを得ないのだろう。
そんな二人が談笑する中、ツバサが一枚の紙を持ってやって来た。
「店長――! 頼まれたステージの進行表もらってきましたよーー!」
「ああ、メルシー、ツバサ」
“彼”はツバサから書類の束を受け取った。
進行表と言っても紙一枚だけの一般的なプログラムとは違う。むしろステージを運営する関係者が使う台本の様なもので、そこには会場のアナウンスや商品のプレゼンの内容、音楽を流すタイミングまで詳細に記載されている。これを見てカメラマンたちは自分が撮るべきものに狙いを付ける訳だ。よって“彼”も必然的にステージのプログラムを一つ一つチェックする必要がある。自分のクライアントのトレックは勿論のこと、他のブランドも撮影は怠れない。自分の店の取引先であれば仕入れる商品をセレクトする参考になるし、カメラマンとして自転車雑誌やWebメディアに写真を提供することもあるからだ。
そんな時、とあるブランドに“彼”の目が止まった。
あれ……?と、思わず“彼”も声を漏らす。
今年日本に進出したばかりの“ラコック”がトレック・ジャパンと同程度の長さのステージタイムを押えていたからだ。
確かに“ラコック”はフレンチ・スポーツブランドの雄として欧州ではメジャーと言える存在だが、日本ではその進出に遅れたためナイキやアディダスと比べ知名度に劣るし、自転車業界でも新参者だ。にも関わらずそのニューフェイスがいきなりトレック同様の最長のステージタイムを押えている。業界関係者なら誰しも首を傾げることだろう。
「ああ、滝澤さん、気が付きましたか? ラコックさんなんですけどねー、ちょっと驚きましたよ。自転車業界じゃ新顔なのにいきなりこれだけのステージを押えたんですからね。業界の中ではちょっと話題になったんです」
「ええ、いくらあのラコックでも日本じゃまだまだなのに――」
これは厳しいでしょうと言わんばかりに彼も驚いた。
今回のステージに携わった“彼”や浅野氏なら分かるが、ファッションショーを行うにはかなりの金がかかる。ステージを押えるだけでなく、ショーに出演するモデルなどステージの時間に比例して費用がかかる。単にステージを押えて商品を並べれば良いと言うものではないからだ。
「それがラコックさん、サイクル・ウェアもかなり気合が入っているらしくて、それでこのサイクル・モードにも無理矢理捻じ込んできたみたいですよ」
「それにしてもサイクル・アパレルなんて種類もアイテム数も少ないですし、一体何をやるつもりなんでしょう?」
「そうなんですよ。そこも不思議でしてねーー? いくら時間を取ったからって、見せるモノがなけれりゃ話にならないのに、ラコックさんが何をそんなに大々的に売り出すのか――って、我々も驚いているんですよ」
「うーん……。でも一体、何を……?」
“彼”も浅野氏もラコックの行動に首を傾げるが、適切な答えを見い出せない。確かに世界のラコックではあるが、未踏の地の日本で、しかもマイナーなサイクル・アパレルでいきなり何を――と。考える程に疑問が募るばかりだ。
作品名:恋するワルキューレ 第三部 作家名:ツクイ