恋するワルキューレ 第三部
そんな自然なメイクにも明るさと透明感を醸し出すテクニックは、さすが化粧品会社で働く美穂ならではだ。その隠されたメイクの腕はロワ・ヴィトンで働く裕美をも軽く上回るだろう。
美穂は女性プロロードレーサーという仕事だけではなく、化粧品会社のスポーツ事業部で働くOLでもある。ただアスリートとしての立場もあることから、過度なメイクはイメージにそぐわないため、普段からナチュラルメイクとせざるを得ない。
もっともモデルの様なスタイルとルックスを持つ美穂ならば、そんな派手なメイクをする必要はないのだが、それでも決める所は女としてキメなくてはならない。これはもう大人の女のお約束。
美穂はメイクを終え、鏡の前で最終チェックに入る。
ノースリーブの白いニットは美穂のスタイルの良さを強調する細めのタイプ。肩を見せて男を誘惑することも計算済み! ゴールドのネックレスでアクセントを付けることも忘れない。
赤と黒のチェックのスカートは少し短く、美穂の白く長い脚を強調する! 白いニットとのカラーバランスもバッチリ!
イヤリングはちょっと大きく派手目なのだが、これは美穂の長い髪でイヤリングが隠れてしまわない様に気を使ってのこと。最後にバックも服と色が被らない様に、ピンクのバックをチョイスして決め!
女の“顔”は鍛えた身体とセンスで決まる!
そんなポリシーを持つ美穂も、あらゆる面から計算し尽くしたそのコーディネートを見て、「準備オッケー」と満足し思わずニヤけてしまっていた。
美穂は焦る気持ちを抑えながらも、パンプスを履いてダッシュ、ダッシュ!
だがドアの鍵を閉め階段を降りた時、マンションのエントランスの暗闇に女性が一人ただボーっと立ち尽くしているのを見つけた――。
「……ん? 誰や?」
マンションの住人や客ならドアの前で往生するはずもないし、ポストにチラシをばらまくおばちゃんでもない。一体、なんや?と思い、その女性を良く見てみると、その細身で背の高い姿とポニーテールには見覚えがあった。
「あれ……? なんや、裕美やないか? こんな時分どうしたんや?」
「ううっ……、美穂姉え……」
裕美は目を赤く腫らし、肩を小さく震わせている。ロワ・ヴィトンの服を着こなし、オフィスを闊歩するキャリアウーマンの姿はそこにはなかった。まるで泣くのを必死に堪えている子供の様だ。
「なんや? 目が赤いで……? もしかして泣いてたんか?」
「ご、ごめんなさい……、美穂姉え……。でも、どうしても我慢できなくて……」
うわあああぁぁぁーーーー!
裕美は美穂に抱き付くと、堰を切った様に泣きだした。
「な、なんや? 裕美、一体どうしたん?」
「美穂姉え……。“彼”が……。店長さんが……」
「なんや、タッキーとケンカでもしたんか?」
「うう……、違うの! 違うの! でも、でも……」
「それじゃ、どうしたんや?」
「わたし何も出来なくて……。それで悔しくて……」
うわああぁぁーー!
美穂は何度も「どうしたんや?」と聞くが、裕美は泣いてばかりで一向に要領の得る答えは帰って来ない。仕方なく裕美を部屋の中に入れて、落ち着くのを待たざるを得なかった。
「さっ、これ飲んで落ち付き! そしたら話を聞かせてや」
美穂は砂糖がたっぷり入ったホットミルクを裕美に勧めた。甘く、温かく、そして柔らかなその味は裕美が口を付ける度、冷たく傷付いた心を癒してくれた。
「ありがとう……。美穂姉え……」
「ああ、ええさかい。ちょっと待っててな」
美穂はキッチンに戻り電話をかける。
『あー、もしもし。わたしなんやけどー。
うん、うん。ちょっと行けなくなってしもうてえー。
ゴメンなー、友達が急にトラブルになっちゃってなあー。
後でサービスするから許してな。それじゃあ!』
美穂は電話を切って、裕美の所へ戻って来た。
「美穂姉え……。なんか予定あったんだ? ゴメンなさい……」
「ああ、ええから、ええから。それよりも落ち着いたか? 泣いてばかりじゃ何も分からんわ? タッキーが何かしでかしたんか?」
「うう……。美穂姉え、違うの……。店長さんは悪くないんだけど……」
「それじゃあ、一体どうゆうことなんや?」
うう……、実は――。
裕美は今までの経緯を話し始めた。
“彼”と一緒にジャージをデザインしたこと。それがトレックに採用されたこと。でもその二人の努力の結晶のジャージを、よりによってライバルのエリカが着ること。しかもそのエリカが、彼をマドンナ・ジャージ着る自分を撮るカメラマンに指名したこと――。
敵に塩を送った挙句、その敵に“彼”を盗られるかも知れないし、それを黙って見ていることしか出来ない。しかもジャージをデザインするのに甲斐甲斐しく尽くした裕美を捨ててエリカの元に走るのだ。女としてこんな惨めなことはないし、こんな悔しい思いをしたことはない!
あまりに酷い“彼”仕打ちに、美穂までも激怒する程だった!
「何やそりゃーー!? タッキーも男やないわ! 裕美の気持ちを知ってて、そんなことするんかい!? あいつ何考えとるんやーー!!」
しかし裕美はそんな美穂の怒りに対し首を横に振るのだった。
「ううん、違うの……。店長さんは悪くないの……。だってわたし言っちゃったんだもん。『店長さん、頑張ってね』って……」
「な、なんで、あんたそんな心にもないこと言うんやーー?」
「だって……。だって、店長さんにとってもワルキューレにとっても折角のチャンスだったんだもん。店長さんだってその為に頑張って来たんだし、わたし一人の気持ちで潰せる訳ないじゃない!」
「それだってタッキーも男やろーが!? 女の気持ちを何だと思っとるんや!?」
「だって、だって……。彼だって、“店長さん”って立場があるもん。お店の経営を考えたら断ることなんて許されないじゃない! “彼”だけじゃなくツバサくんや他のスタッフにだって迷惑かけちゃうもん。彼をそこまで追い込む訳にいかないじゃない!」
うう……。うわああぁぁーーん!!
自分が身を引くしかない――。それ以外何も出来ない裕美が涙を止められるはずもなかった。美穂の胸の中で時折身体を震わせながら子供の様に泣きじゃくった。
「そっかあ……。辛かったなあ、裕美……」
全ての話を聞いた美穂は、もう裕美をただ慰めることしか出来なかった。
裕美の髪を優しく撫でながら、柔らかく抱きしめ身体を温めていた。人肌の温もりというのは不思議なものだ。冷たくなっていた裕美の身体が温められることで、緊張も和らぎ徐々に疲れも取れて、次第に心も落ち着きを取り戻してくる。
何より美穂の心の温かさを感じることが出来る――。裕美の孤独と寂しさを癒すのに、これ以上のものはなかった。
「大丈夫や、裕美……。そんな心配することあらへんよ。別にエリカにタッキーを盗られたって決まった訳やないし、嫌われて振られた訳でもないやろ?」
「そうだけど……、わたし彼と友達でしかないもん……」
「心配することあらへん……。タッキーも馬鹿やないから、ちゃんとあんたの気持ちも分かっとるって……」
「そおっかなあ……? 店長さん、本当に分かってくれるのかなあ……?」
作品名:恋するワルキューレ 第三部 作家名:ツクイ