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恋するワルキューレ 第三部

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「店長さん、前にマドンをオーダーした時に言わなかったかしら? “Madone”はフランス語でマリアっていう女性の名前だって! イタリア語ならマドンナ。つまり『聖母マリア』を意味するんだって! これをモチーフにしてジャージをデザインすれば、きっと素敵なジャージが出来るわ!」
 "Madone"が聖母マリア――??
 “彼”が目を白黒させているのも構わず裕美は話し続ける。
「そうよ! 聖母マリアなら知らない人はいないし、ある意味、理想の女性像よ! それがTREKのロードバイク”Madone”と関連付けられるんだから、きっとトレックだってNon《ノン》とは言わないわ!」
「成程――。それは確かに良いアイディアかも……」
 彼も裕美の説明を聞いてやっと納得した様だ。
だが彼が戸惑うのも無理もない。ロードバイクを少しでも知る者なら"Madone"が聖母マリアを意味するなどとは考えもしないことだからだ。
"Madone"とはかのランス・アームストロングのツール・ド・フランス7連覇を支えた最強のロードバイクであり、"Madone"がNASAで用いられる最先端技術を注ぎ込まれている話を聞けば、誰もが戦闘機の様なイメージを思い浮かべるに違いない。
それに”Madone”の名は元々、ランス・アームストロングがツールで勝つ為にトレーニングをした峠の名前であることは余りにも有名な話だ。
その最強の"Madone”がまさか『聖母マリア』だとは!?
彼にとっては全く考えも付かなかったアイディアだが、確かにこれは女性用として売り込むには最高のアイディアかも知れない。
しかし――、彼はすぐには"Oui"《ウィ》とは言わなかった。
「裕美さん、それは良い考えかも知れません。ただ”Madone”を――、いいえ『聖母マリア』をジャージのメインコンセプトにするとしても、マリアのイラストだけではデザインとしては不完全です。他にどんなモチーフを組み合わせるんですか?」
「大丈夫、それも考えてあるわ! 店長さん、ちょっとPCを借りるわね」
そう言って裕美はGoogleからある画像を検索する。
「これを見て!」
「裕美さん、この絵は確か――」
「そう、店長さんもこの絵は見たことがあるはずよ。かのレオナルド・ダヴィンチの名画の一つ『受胎告知』! この絵は聖母マリアがイエス・キリストを身ごもったことを告げられるシーンなの。この絵にマリア様以外のものが描かれているのは、ちゃーんと意味があるんだから!」
 裕美は『受胎告知』の絵を指差しながら説明を始める。
「この天使だって只の天使じゃないわ。聖母マリアを守護するは、神の御遣い大天使ガブリエル! それにこの白い花はユリの花なの。赤い薔薇が愛と美の象徴なら、白ユリの花は純潔の証! すなわち処女懐妊の聖母マリアを象徴する花よ」
「成程――。これなら行けますよ。天使やユリの花も聖母マリアのイメージにピッタリですし」
「でしょ! トレックのブランドイメージとは大分かけ離れてるけど、あれは完全に男の子向けだもん。
それにランニングウェアもそうだけど、他のアパレル・メーカーのジャージってデザイン・コンセプトがないのよ! デザイナーは明るくポップにしたって言うかもしれないけど、コンセプトがないからどのブランドも同じ様なものばかりだし、只の派手なだけの幼稚なデザインに成り下がっているわ!」
デザイン・コンセプトがない――。
 裕美のちょっと偉そうな演説だが、“彼”も異を唱えることはなかった。
 そう。この2週間の間、二人がずっと思い悩んでいたことだからだ。
 彼だって実際、ワルキューレ・ジャージを作った時にはこんな苦労はなかったと言う。美穂のためのジャージというハッキリとしたコンセプトがあったからだ。
戦乙女とも言われるワルキューレは、美しい女神でありながら騎馬に乗り戦う戦士でもあり、まさに美穂のイメージそのものだ。
だからデザインだって、モチーフがどんどん湧いてくるし悩む必要などなかった。
裕美のヴィーナス・ジャージの時だってそうだ。
愛と美の女神ヴィーナス。彼女のことを思い浮かべれば美しいイメージが溢れる様に湧いて出て、デザインのモチーフに事欠くこともなかった。
この2週間もの間、二人がデザインを決めかねていたのは、そんな決定的なものが欠けていたからだ。
でもこの聖母マリア、"La Madone"のジャージなら何も迷うものはない!
「店長さん、これなら大丈夫よ。大人の女性が着ても恥かしくない知性とエレガントさがあるわ!」
「ええ、裕美さん! これで行きましょう!」

 『鉄は熱いうちに打て』とばかりに、二人は早速ジャージのラフスケッチを描き始めた。
まず裕美がメインモチーフになる聖母マリアの絵画を探した。
聖母マリアの絵画は『受胎告知』のみならず、『聖母子像』などそれこそ無限にある。柔和で優美な姿から、ダヴィンチと並ぶルネサンス時代のもう一人の巨匠”ラファエロ”の『聖母子像』に決定。
そのマリアをベースに、彼が細かなパーツのラフスケッチを描いてゆく。
ジャージの背中に大きく書かれる聖母マリアの姿。
左右に金色に光輝く二人の天使。
ウェストの位置に白百合を飾り、まるで西洋絵画を見る様な美しいジャージが浮かび上がる。
アクセントとして白鳩と金色の百合の紋章をジャージのサイドに配置しバランスを整える。鳩は神がこの世に舞い降りる時の姿であり、百合紋はヨーロッパの伝統ある家紋の一つ。フランス・ブルボン王家の紋章でもある。
 ジャージのベースカラーは白に決定! これも裕美と彼の意見は即一致!
 同じ白を基調とする大天使ガブリエルや白百合が目立たなくなってしまうが、聖母マリアのイメージを汚さないためにも白以外にありえない。それに無闇に派手にしない方がエレガントなイメージを高められると考えてのことだ。
胸は“La Madone”《聖母マリア》のゴシック調のロゴに、金の十字架をあしらい荘厳さを醸し出す。
この二週間、何もデザインを決められなかったのが嘘の様だ。二人はわずか1時間程度でラフ・スケッチを完成させてしまった。
「これなら、行けるわ……」
「ええ、絶対大丈夫ですよ……」
 二人はスケッチを見ながら呟いた。
光り輝く聖母マリア。彼女は二人に優しく微笑み、祝福を与えてくれるかの様だ。
まだグラフィック・デザインを仕上げる作業が残っているが、そんなことは気にならない。裕美も彼も頭の中には既にジャージのイメージが完成しているし、何よりマリア様がついている。二人の自信が揺るぐはずもなかった。

* * *

その日裕美は始終、そわそわムズムズと身体が疼いていた。今日にもトレックからジャージの採用について連絡が来るかも知れないからだ。
“彼”の話だと、トレックのアパレル担当者も“La Madone”《聖母マリア》のジャージを気に入ってくれて、早速社内会議を開き動き出していると言う。
裕美も”La Madone”のデザインに絶対の自信を持っているが、やはり“好み”やセンスの違いというものはあるし、会社としてトレックが採用するかはブランディング等また別の要素も絡んで来る。