恋するワルキューレ 第三部
しかし――、裕美達が抜かれることはなかった。
「この野郎! シロウトのくせにカーボンバイクなんか乗りやがってー! 生意気なんだよー!」
エンゾは相変わらず汚い罵声を浴びせてくるが、一向に追い付く気配がない。一体どうしたのか? 彼が振り返ってエンゾを確認して見ると、エンゾは確かに後ろにいるが、明らかに先程までの勢いはない。
「店長さん、あの男はどうしたの?」
「多分、裕美さんに追い付いたことで安心したんです! ペースを落とて、身体を休ませている様です」
「店長さん、ペースを上げて! あの男を引き離さなきゃ!」
「裕美さん、落ち着いて! 無茶はしないで下さい!」
「でも、このままのペースでアイツに勝てるの? 先に頂上まで行けるの?」
“彼”は、すぐに返事をしなかった……。
後ろを向いて、裕美の状態を確認する。ペダルを踏む脚が左右にふらついている。顔も下を向いてしまっている。呼吸も浅くしか出来ないようだ――。
ダメだ……。そう判断せざるを得なかった。
だが、彼はそのようなことは決して口に出さなかった。ダメならば、一か八かに賭けるしなかい。
エンゾも裕美が限界に近いことを知らない。ここでアタックを決めれば追走を諦めるかも知れない。
「裕美さん、ギャンブルです! アタックします、ついて来てください!」
「分かったわ、店長さん!」
彼が腰を上げて、ダンシングを始めた。裕美もダンシングで彼の後を追う。
裕美の最後のアタックだった。
「そこの女ー! 待ちやがれえーー!」
しかしエンゾが裕美のアタックに反応した。ダンシングで裕美達を追いかける! エンゾは意地でも負ける訳には行かない。
“彼”が後ろを向いて、エンゾを確認した。裕美との差が徐々に詰って来ている。
ハア、ハア、ハア…………。
裕美がサドルに腰を落としてしまった。もうダンシングを続けられない!
万事休すだ!
エンゾがついに裕美に追い付いた!
「お前ら、このエンゾ様に逆らおうだなんて百万年早いんだよ! ロード界のカリスマを馬鹿にしやがってーー!」
「ハア、ハア……。ふざけないで! 何がカリスマよ! 自分より遅い人を見つけて、見下しているだけじゃない!」
「う、うるせえっ! お前等みたいに遅い奴はロードバイクに乗る資格もねーんだよ! 遅い奴程、高級バイクに乗ってちゃらちゃら自慢しやがって。生意気なんだよ!」
「何よ!? 自分の実力がないのに、他人を妬んで“革命”だなんて! 負け犬の卑怯者がカッコつけて言っているだけじゃない!」
「俺が、負け犬だってー!? ふ、ふざけんじゃねーー!!」
エンゾが図星を指されたのか、キレてまた罵声を浴びせ始めた。
「おい、エンゾ! これ以上ふざけたことは言うなよ! 女にしかデカイことは言えないのか!?」
“彼”がエンゾの側まで下がり、エンゾをニラミつけた。
流石に男相手にマズイと思ったのか、エンゾも口を一瞬つぐんだ。
その時だった――。裕美が再びサドルから腰を上げ、ダンシングを始めた。
「何ー!? こいつまだ走れたのか?」
エンゾも追走しようと、スピードを上げる。
「裕美さん、無茶しないで下さい!」
“彼”も思わず声を上げた。裕美のアタックがあまりにも予想外であったため、追走するタイミングまで遅れてしまった。裕美は彼のアシストもなく一人アタックをかけたのだ。
しかしすぐに、エンゾが裕美に並んだ。
裕美も負けじとダンシングを続けようとする。
「ハア、ハア、ハア……。あなた女に負けてるじゃない。二度とデカイ顔はさせないわ!」
「この女ーー!! まだ一周しかしてねえぇじゃねえか! 『ジロディ箱根』はこの峠を2回登るんだよ!」
「そんなこと関係ないわ! あの頂上に先に登った方が勝ちよ!」
「だったら、叩きのめしてやるー! 女だからって容赦しねえぞ!」
ハア、ハア、ハア…………。
だが――、裕美とエンゾの競り合いは、ほんの数十秒しか続かなかった。
裕美がついに力付き、エンゾが裕美を突き放して行く。裕美の脚は止まり、もう坂を登ることも出来ない。
裕美のバイクが完全に止まった――。
「裕美さん、危ない!」
“彼”は倒れようとした裕美をとっさに抱きかかえ支えた。
裕美はもうビンディングペダルを外す力もない。彼が助けなければ、裕美はバイクごと倒れてしまっていたであろう。
「ゴメンなさい、店長さん……。私負けちゃったみたいね……」
「裕美さん、そんなことありませんよ。アイツを一度は追い抜いたんです。女に抜かれたなんて恥ずかしくて、エンゾでも勝ったとは威張ることはできませんよ……」
「そうかなあ……。でも、アイツに抜かれちゃったし……。舞に何て言おう……」
裕美は彼の前で思わず泣いてしまった。しかしもう声を出す力もない。彼に身体を預け、涙を流すだけだった――。
リリリーン、リリリーン!
裕美が大観山の坂で休んでいる間、突然“彼”の電話が鳴った。
裕美はエンゾに負けたショックで涙も止まらない状態だったし、疲れも酷くまだ意識も朦朧として、他人の携帯の音に反応することなど出来なかった。
もう、走れない……。
あんなヤツに負けちゃったの……。
舞になんて言おう、どうしよう……?
裕美は意識はあるものの、酷い身体の疲れから、これからどうしたら良いのか考えるとも出来なかった。そんなネガティブなことばかりがグルグルと頭を回るだけだった……。
「ああ、分かった。こっちは怪我はないから大丈夫。下山も出来ると思う。それじゃ電話代わるから……」
“彼”は何故か少し嬉しそうな顔をしながら、携帯を裕美の耳元に近づけた。
「裕美さん、元気を出して! ちょっと電話に出てもらえませんか?」
「え……? 店長さん、ゴメンなさい……。今は誰とも話せる気分じゃないの……」
裕美は力なく断ろうとするが、彼はなおも携帯に出るように促すのだった。
「裕美さん、そんなこと言わずに! きっと元気が出ますから!」
彼が言い終わらない内に、突然携帯から大声で叫ぶ男の人の声が聞こえた。
『裕美さーん! 聞こえますかー? 裕美さーん?』
「えっ? 何? テル君?」
『そうですよー! 裕美さん、ちゃんと電話に出てくれないなんて寂しいじゃないすかー!?』
「ご、ごめんなさい……。わたし、ぼーっとしてて……。テル君は今どうしているの?」
『裕美さん、何言ってるです? もう、とっくに下山してますってー! あっ、もちろんエンゾなんか突き放しちゃいましたからね。心配しないで下さいねー!』
テルは裕美の今の状況など全く知らぬ様で、能天気な様子で話していた。
しかしその明るい声が、逆に裕美を楽な気分にさせてくれた。
「もうテル君たら、こっちは大変だったのよー! 少しは私の心配をしなさいよ! だからいつまでたっても『男の子』なのよー!」
「ハハハ……。裕美さん、もう大丈夫みたいですね?」
裕美は涙を拭きながら、“彼”の笑う姿を見て安心してしまった。自分が落ち込んで泣いているのが馬鹿みたいだ。テルやユタも一緒に走ってくれているし、彼も一緒に居てくれる。自分がエンゾに負けたからって、落ち込む必要なんかなかったんだ。負けたショックも吹き飛ばされ、身体も不思議とラクに感じられてきた。
作品名:恋するワルキューレ 第三部 作家名:ツクイ