恋するワルキューレ 第三部
「でも店長さん、どうしてこんな所でエンゾは休んでいたの? ウサギとカメの競争じゃないのよ?」
「それはですねえ、箱根旧道を登る時は必ずこのコンビニが補給ポイントになるからです。エンゾは峠を登る前にコンビニに寄りませんでしたからね。必ずこのコンビニで水や食料を補給すると思ったんです。裕美さん、このゼリーを飲んでおいて下さい」
裕美は彼から補給食のゼリーを受け取った。坂でエネルギーを大量に消費したのか、ちょうど少しお腹が空いてきた所だ。
走ることに夢中で今まで気が付かなかったのだが、考えてみれば、裕美はボトルや補給食等は全部彼から貰っていたのだ。もしコンビニで水や補給食を買ってボトルに水を入れて……なんてことをしていたら、どう急いでも5分くらいはかかるだろう。
5分のタイムを走りで短縮することは、相当の実力差がなければ難しい。坂で相手を追い駆けたことのある裕美は、その5分の『奇跡』がどれほどの意味を持つか、箱根の坂で嫌と言うほど思い知らされた。相手と10秒程度の差を縮めるために、どれだけ苦しい思いをしただろう。
アシストしてくれる人がいるだけで、これ程有利にレースを進められるなんて、ロードレース未経験の裕美には考えもつかなかったことだ。
もしかしたら本当にあの男に勝てるんじゃあ……。
そんな期待さえも、胸に芽生えてきた。
後はエンゾとの差をどこまでキープ出来るかが問題だ。短い下りと湖畔の平地区間で脚を少し休ませることができたが、大観山の最後のヒルクライムが残っている。
何としても頂上まではエンゾの先を行きたい。山頂まで先に登れば、実力差の出にくい下りや平地区間でも裕美が先行できるからだ。
「裕美さん、もうすぐ大観山に入ります! 最後のヒルクライムです!」
彼が左手で山の方を指差した。あれがヒルクライムのゴールとなる大観山なのだろう。山々が連なり、これから長い坂が続くだろうことは容易に想像できる。
裕美は気を引き締め、これから登る坂の為にボトルの水を飲み込んだ。ゼリーの補給も終えている。戦闘準備は完了だ。
信号を左に曲がり、坂に入ったその時、前方で裕美達に声をかけ応援してくれる人を見つけた。箱根の山を登るハイカーだろうか?
「センパーイ! 頑張って下さーい! あんな奴に負けちゃダメですー!」
えっ! 舞!?
間違いない! 舞が応援に来てくれたのだ!
でもどうして舞がこのレースを知っているの?
裕美はエンゾとの勝負のことは舞には話していなかった。エンゾ達とのことでこれ以上舞を巻き込むことは出来なったし、ロードバイクの勝負では勝ち目は薄く、半ば玉砕覚悟の挑戦だったからだ。
「裕美さん、舞さんが来てますよ! 僕がこのレースのことは話しておいたんです。裕美さんが、舞さんのためにエンゾと勝負するって!」
舞、ありがとう……。
裕美の心も目頭も少し熱くなった。それに舞を見て、身体にもう一度ムチを入れる気力が出てくる!
裕美はこれまでの限界にギリギリの力で坂を登ってきたため、脚も重く半ば動かない状態まで疲労が蓄積していた。そんな身体でも、舞の声援を受けて不思議に力が湧いてくる!
裕美は、手を振って舞の応援に応えた。
「ありがとう、舞! 見てて、あんな男やっつけてやるから!」
「そうですよー! やっつけちゃってくださーい! テル君もユタ君ももう行きましたよー!」
そうなんだ。テル君やユタ君は、エンゾ達を追い抜いちゃったのね!
私だって負けてられないわ! 舞の前で恥ずかしい姿は見せられないもの。
何としても、あの男に勝たなくちゃ!
裕美はハンドルを持ち直して、ヒルクライムを登るポジションに切り替えた。
「店長さん、ペースを上げて! 絶対あの男に勝つんだから!」
「裕美さん、まだリードはあるんです。無理はしないで下さい! 脚の具合は大丈夫ですか?」
「そんなの関係ないわ! 店長さん、早く!」
“彼”は裕美の勢いに少々驚いた。今までに見たこともない裕美の表情だったからだ。
彼は更にペースを上げることに少し躊躇したが、裕美の勢いに押されてペースを上げてしまった。それにエンゾが後ろから迫ってくることを考えれば、やはりペースを上げざるを得ない!
「分かりました。ペースを上げます! 裕美さん、ギアを軽くしてケイデンズを90回転以上で回して下さい!」
「90回転? そんなに速く!?」
「脚が疲れてくれば重いペダルを踏めなくなります! そうなればペダルの回転数を増やしてパワーをキープするしかないんです。息は苦しくなりますが、脚への負担は減らせます。ギアを落として下さい!」
「分かったわ!」
カチ、カチ。カチャン、カチャン!
裕美はフロント・トリプルのギアを一番軽いギアへ落とし、ペダルの回転数を上げた。サイクル・コンピューターでは、ケイデンズは95rpmまで上がっている。平地なら平均的な回転数だが、ヒルクライムではかなりの高回転域だ。
彼は裕美の様子をチラチラと見ながら走っている。裕美は無酸素運動域に入らないレッドゾーンギリギリのペースで走っているが、疲労も相当に蓄積している。もういつ脱落してもおかしくない状態だからだ。
実際裕美も、もう単に呼吸が苦しいだけではない。体全体が重く痺れるような感覚に襲われ始めていた。この苦しさは七曲りの坂や猿滑りの坂の時とは全く異質のものだ。身体が鉛の様に重く、筋肉も粘土の様に鈍くしか動かない!
大観山の坂は箱根旧道より少し斜度が緩いことがせめてもの救いだ。それでも頂上までは十分な斜度と距離がある。
そしてついに、彼と裕美の車間距離が開いてしまった。裕美のペースが落ちてきたのだ。
「裕美さん、大丈夫ですか!?」
彼が声をかけたその時、下から野太い男の叫び声が聞こえてきた。
「こらー! 待てー、マドンの女ー!」
あの男の声だ! エンゾ相模川が追い駆けて来たのだ!
坂の下に小さくしか見えないが、あの青いジャージは間違いない!
確実にこちらに近づいてきている。追い付かれるのは時間の問題だ!
「チイッ! よりによって、こんな時に!」
温和な彼が珍しく声を荒げていた。
そんな彼を見て、裕美は悟った。自分が今、極めて不利な状況にいるのだ!
「ハア、ハア……。店長さん、あの男に追い付かれちゃったの?」
裕美はもう後ろを振り返る余裕すらない。下を向いて走るだけだ。顔を上げて彼の背中を見る気力もなかった。
――限界に近い。もうペースを上げることなど不可能だ!
「まだ大丈夫です。相当離れてますから、落ち着いて後ろに付いて下さい。ペースを無理に上げれば、逆に頂上まで走れません!」
彼は裕美を落ち着かせる様なことを言ったものの、気休めに過ぎないことは、後ろを見れば明らかだ。エンゾのペースが上がり徐々に差が縮まって来ている!
コンビニで追い抜かれたことが相当癪に障ったのだろう。自称『カリスマ』の自転車ライターがホームコースの箱根で、たとえ一周とは言え女に抜かれたのでは沽券に関る。エンゾも2周目のことは考えていないかのようなペースだ!
「マドンの女ー! 追い付いたぞー!」
エンゾがついにあとコーナー一つ分の差まで追い付いてきた。後ろを振り向けばエンゾがすぐ見える。もう追い抜かれてしまうのは時間の問題だと覚悟した。
作品名:恋するワルキューレ 第三部 作家名:ツクイ