恋するワルキューレ 第三部
もう一度アタック!? もっと苦しくなるの?
いつも優しい彼にしては容赦のない厳しいセリフだ。
でも、あのオジサン達の見下した様な笑い顔を思い出して、裕美は思い直す!
そうよ! あの卑怯なオジサン達を見返さなくちゃ! でなきゃ、舞にもう一度走ろうなんて言えないわ!
もう、弱音など吐いていられない! 裕美も覚悟を決めた!
「私、もう平気よ! 店長さん、行きましょう!」
「裕美さん、次が箱根旧道の最後の坂、『猿滑りの坂』です。この坂ではペースを落としません。全力で走って下さい」
「最後の坂? それにまた全力って、何?」
裕美はサイクル・コンピュータの高度計に視線を移した。まだ標高は600mに過ぎない。この箱根の峠の終着点となる大観山の標高は1000mはあるはずだ。
「ハア、ハア……。店長さん、でもまだ頂上は先じゃないの?」
「この坂を過ぎれば、すぐ芦ノ湖に着きます! そこに平地区間がありますから、脚も回復させられます! だから全力で走って下さい!」
「分かったわ、店長さん! また本気で走るから見てて!」
「裕美さん! もうすぐ『猿滑りの坂』です!」
「えっ!? もう?」
彼から声をかけられたのは、『七曲り』の後で、裕美がちょうど息を整え水分を補給し終えた頃だ。本当に脚を休める暇も、気を緩める時間もない。箱根旧道は坂とそして激坂との連続だと言われていたが、全くその通りだ。
裕美の身体も限界に近い。猿滑り坂の長い直線の激坂を見て、普通ならばここで気持ちが折れていたかも知れない。だが目の前に、裕美の心を焚き付けるものあった!
「店長さん、あれ! あの青いジャージよ!」
坂の上にGIOSの青いジャージを着たオジサンがいる。ヘルメットを被っていることからエンゾではないようだが、仲間の一人に間違いない!
「店長さん、あの人を抜きたい! ペースを上げて!」
「もちろんです。裕美さん、ダンシングを!」
カチ、カチ。ガチャ、ガチャン!
裕美はギアを一気に2段上げ、ダンシングに切り替えペダルを踏む。
裕美はクラシック・バレエで培ったバランス感覚のためか、ダンシングが上手い。
その背筋と脚が伸びた姿は、まるで“トゥ・ダンス”を踊るバレリーナの様だ。トゥ・ダンスは派手な動きは無いものの、バレリーナの実力を鏡の様に映し出す。バイクはわずかに左右に振るのみで、振り子の様に一定のリズムで身体が揺れる。だがその身体の軸はブレることもなく、シンプルに体重をペダルに乗せていく。その無駄な動きのないダンシングのおかげで、裕美は長時間ダンシングを続けることが出来る。
しかしダンシングは身体全体を使いペダルを踏むので、息が上がり易く長時間続けることは出来ない。裕美はシッティングとダンシングを交互に繰り返し、徐々にオジサンとの差を詰めて行った!
そして裕美はダンシングを続ける理由はもう一つあった。体力が限界に近付いている為だ。脚に力が入らずシッティングで、力づくでグイグイとペダルと踏むことはもう出来ない。
それゆえ、裕美はトゥ・ダンスの様に垂直にペダルを踏み込むダンシングとは別に、時折、揺り籠の様に左右に大きくバイクを揺らすダンシングを交え走っていた。脚の違う筋肉を使うことで、血液を循環させ、少しでも筋肉の疲労を回復させるためだ。
ロードバイクの上で硬軟織り交ぜたダンシングを続ける裕美は、正に本物の『ダンサー』だった。
遂に裕美はGIOSのオジサンに追い付いた。
「ハア、ハア……。そこのオジサン、邪魔よ! どきなさい!」
「ああっ! マドンの女!」
流石にオジサンも驚きを隠せない。自分よりも若いとは言え、男性の方が体力的に絶対的に有利だ。しかも箱根旧道の入り口で、圧倒的な差を付けていたのだ。自分が追い付かれるとは考えもしなかったのだろう。
「あそこから追い付かれたのか!? そんな馬鹿な!」
「そこの加齢オジサン! 今から、抜いて上げるから、覚悟なさい!」
「ふざけんじゃねえ! 誰が加齢だよ!?」
「女のわたしに抜かれれば、完全なオジサンの証拠よ! 腰を抜かして後ろで見てなさい!」
裕美がダンシングでオジサンを抜こうとする。
だが流石に、加齢オジサンも女に負ける訳にはいかない。負けじとダンシングで応戦する。
ギシッ、ギシッ!
ペダルを踏む都度、Giosのバイクからフレームやホイールの歪む音が響いた。
エンゾ一門はヒルクライム用のコンパクトクランクを禁止している。この猿滑りの坂の様に斜度が10%を超える坂では、どんなにギアを軽くしてもケイデンスは40に満たない。平地の半分以下の回転数だ!
低い回転数を補うには、より重い荷重を懸けなくてはならない。剛性の低いクロモリ・バイクは、そのパワーを受け止めることが出来ず、フレームが捻じれスピードにロスが生じるのだ。
シャッ、シャッ、シャッ!
一方、裕美のマドンからは、タイヤとチェーンから静かな音が響いていた。
NASAでも使われる最新のカーボン・ファイバーを使ったマドンは、軽量ながらも頑強さを持ち合わせており、裕美の全体重を懸けたペダリングも受け止め、フレームが捻じれることもない。フレームの頑丈さはスピードに直結するのだ。
最先端の技術を用いたマドンは、Giosのクロモリ・フレームの様なヴィンテージ・バイクとは絶対的に性能が違う。Giosの様なクロモリ・フレームは、クラシカルなデザインと柔らかい踏み応えから、初心者のオジサンが好んで乗るが、現在のロードレースでは使われることのない、既に退役した旧式のフレームでしかない。
この異なるバイクとダンシング・スタイルの二人の鍔ぜり合いが続いていた。
ハア、ハア。ハア、ハア…………。
裕美の呼吸が上がり、心拍数も限界域に達して来た。
ハア、ハア……。
一方、このオジサンも負けじとダンシングで裕美に追い付いて来る。麓で追い抜いたメタボなオジサンとは違う。ここまで先行していたことと良い、地力では完全に裕美より上なのは間違いない。
裕美はタッキーのアシストを受け走ることで、何とか「持たせている」状態だ。このままダンシングの掛け合いになれば、裕美が負けてしまうかもしれない。
ハア、ハア、苦しい……。心拍も190を超えてる……。
ここで少し休んだ方が良いの? でも、ここでオジサンに負けたら……?
裕美はこれ以上ダンシングを続けるべきか迷っていた――。
もう明らかにレッドゾーンに達している!
“彼”も後ろの裕美をチラチラと見て、体力のチェックをしていた。ペースを落とさせるべきか迷っているのだろう。
だが意外にも、先に『墜ちた』のはオジサンの方だった。
まだ余裕がある様にも見えたが、シッティングに切り替え、サドルに腰を降ろした。
裕美も息を付くため、シッティングに戻す。だがオジサンに弱みは見せられない。呼吸は苦しくても、正面を見て走り続ける!
「お前ら、一体何なんだよ? そんなに息が上がって、2回目の峠を登れる訳ねえだろう!?」
「ハア、ハア……。そんなの関係ないわよ! あなただけじゃないわ。あの無精髭の男も抜いてやるんだから覚悟なさい!」
「関係ないって――。
作品名:恋するワルキューレ 第三部 作家名:ツクイ