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恋するワルキューレ 第三部

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「裕美さん、よく頑張りました! 少しペースを落とします。呼吸を整えて水を飲んで下さい」
ハア、ハア、ハア……。ゴク、ゴクッ。
裕美は彼から冷えた水が入ったボトルを受け取り一気に飲み込んだ。
ヒルクライムは大量にパワーとエネルギーを使う割りに、スピードが上がらないので、体温が急上昇し大量に汗をかくのだ。冷たい水は裕美の身体を冷やし、喉の渇きを癒してくれた。
「ハア、ハア……。店長さん、ありがとう。こんなに走れるなんて思えなかったわ。あと二人、絶対抜いてやるんだから!」
「裕美さん、無理はしないで下さい。頂上の大観山は標高1000メートルもあるんです。まだ半分も登っていません!」
まだ半分も登ってないの……。
裕美は大きく呼吸を繰り返しながら、心の中で呟いた。この箱根のヒルクライムが苦しいことは覚悟していたものの、まだ半分も登っていないだなんて? でもサイクル・コンピューターで高度を確認すると、まだ200メートル程しか登ってない――。
まだ確かに体力に余裕はあるけど、本当にこの峠を登れ切れるの? 
そんな不安が裕美の心に影を刺した。
「裕美さん、まだ走れますよね?」
「ええ、大丈夫よ! だけど……」
 しかしそんな不安を彼は耳にも止めない。
「心拍は今いくつですか?」
「今、175だわ!」
「それなら大丈夫です。まだまだ走れるはずです! それ以上、心拍が上がる様なら言って下さい。頂上に登る前に終わっては意味がありません。それと脚が重く感じて来たら必ず言って下さい。限界が近いサインです」
「わ、分かったわ、店長さん!」
「もうすぐ『七曲りの坂』です。ギアを落として!」
『七曲りの坂』――。
それは斜度が10%超の坂が延々と続く箱根旧道の最大の難所だ。
『七曲り』と言うが、実際は12ものヘアピンカーブが続き、しかもそのカーブでの斜度は軽く15%を超える! 足を休めることも出来ず、ここで力尽き足を着くローディーも少なくない。
「な、何よ、この坂!?」
 実際、裕美は『七曲り』のヘアピンコーナーを見て言葉を失った。
左に曲がる最初のヘアピンカーブは螺旋階段の様に縦に垂直に、そして180度横にと歪に捻じ曲げられている。こんなヘアピンカーブがこれから延々と続くと言うのだ。
 でも、ここを走らなきゃ! 登らなきゃ、あの男を見返せないわ!
裕美は覚悟を決めて、サドルから立ち上がる。
こんな坂はとてもシッティングで登り切れるものではない。ダンシングで身体全体の体重をペダル懸ける!
正確無比なシマノのコンポーネント『アルテグラ』を装備したマドンは、ダンシングの最中でもギアを適確に変速させてくれる! 裕美は適切なトルクがかかるギアにチェンジしつつ、一定のペダルリズムでこの急坂を登った。
ハア、ハア、ハア……。
しかし七曲りの坂を3つ4つも過ぎると、裕美の息が上がり始めた。あまりの急坂のため、筋肉が必要とする酸素とエネルギーの供給が絶対的に追い付かないのだ。この激坂では休むことも出来ない。これ以上スピードを落とせば、バランスを保てず落車してしまう。それ程、既にスピードが落ちているのだ。休むにはもう、足を付くしかない。
「裕美さん! 押しますから脚を休ませて下さい!」
すかさず彼が裕美の背中を押してくれた。
「ハア、ハア……。ありがとう店長さん……」
裕美も踏む力を緩め、呼吸を整える。次のコーナーまでのほんの数十秒程の休息でしかないが、次のコーナーで再びダンシングでヘアピンカーブの急坂を登らなくてはならないのだ。わずかでも体力を回復させなくてはならない。
次の坂! もう一度よ!
裕美は再びダンシングでヘアピンカーブの急坂にアタックをかけた!
坂を一つ越える度に体力が削られ、脚が重くなる様な感触に襲われる。そしてコーナーを過ぎれば、彼が背中を押して休むことの繰り返しだ。一体、これを何度繰り返しただろう? もう何度目か分からない。
まるであの『インターバル・トレーニング』と同じシチュエーションだ。
インターバル・トレーニング――。それは有酸素運動能力を短期間で強化できる唯一の方法だ。そんな魔法の様に都合の良い方法には当然代償が伴う――。
このトレーニング方法は僅かな休憩時間を挟んで、高強度の無酸素運動を体力の限界まで繰り返すものだ。しかし限界レベルの走行を何度も繰り返すトレーニングだけに、その苦しみは肉体的にも精神的にも極めて過酷だ。
そしてこの苦しみが襲いかかるのは、トレーニングの時だけではない。限界を超えたトレーニングは必ず身体に大きな『揺り戻し』がやって来る。練習後の肉体的疲労も今までとは比べ物にならない程辛いものだった。疲労感で次の日も違う意味で『苦しみ』を味わうのだ。裕美はこの1ヶ月半の間、単にフォームの研究だけでなく、この苦みにも耐えてきたのだ。
絶対にこの坂を登り切るわ! そんな自信と決意が裕美の胸にあった。
もう、七曲りの坂も7つをも登った! 残りあと5つ!
裕美は再びダンシングで立ち上がる。無闇に脚の筋肉で踏み込む様なことはしない。上半身の体重を垂直にペダルに乗せ、最小限の力でカーブを登る。
それでも心拍は180bpmを超える! 危険水域だ。
「ハア、ハア……。店長さん、心拍が……」
「裕美さん、これ以上無理はしないで! 脚を休めて下さい」
 彼が裕美の背中を押すが、それでもこんな短時間で回復するものではない。
「裕美さん、次の右コーナーはシッティングのままで走んです。僕もそのまま押します」
「わ、分かったわ!」
 裕美はギアを一段落とし、さらに軽いギアにする。右のヘアピンカーブは道路の外側を走るため、僅かに斜度が緩い。彼のアシストを得て、そのコーナーを走り抜ければ、また左カーブの急斜面になる。
 ここはダンシングでなければ走り切れない。裕美は再び立ち上がる。心臓がバクバクと鼓動が高鳴る。もはや悲鳴に近い!
 それでもまだ七曲りの坂は残っている。再び左コーナーをシッティングでクリアする。
「裕美さん、次で最後の坂です! あと少しです! 頑張って下さい!」
 ハア、ハア、ハア…………。
 もはや返事をする余裕もない。彼への答えとして、裕美は再び立ち上がる。最後のダンシングだ! 心拍は190bpmに達している! まさに限界レベルの走りだ!
左に壁の様に起立する坂を、バイクを左右に振りながら最後の力を振り絞る。坂の斜面が一気に緩くなる。七曲りの坂を越えたのだ! 思わず裕美の脚が緩んだ。
「裕美さん、よく頑張りました! ペースを落としますから、呼吸を整えて下さい」
ハア、フウ、ハア…………。
裕美は返事もせず、彼の言う通り呼吸を整えることに専念した。実際、下手に声を出そうとすれば、むせて息さえ出来なくなったかも知れない。
 「助かった……」というのが今の裕美の何よりの心境だ。これ以上、坂が続いていたら、本当に足を付いて休まなくてはならなかったろう。それ程、限界まで自分を追い込んだのだ。
「裕美さん、脚は大丈夫ですか?」
「ハア、ハア……。息は苦しいわ……。でも脚はまだ大丈夫よ」
「それじゃあ、呼吸が元に戻ればもう一度アタックします。脚が問題なければ、まだまだ走れます! 苦しいでしょうが、我慢して下さい」