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恋するワルキューレ 第三部

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「ほらあ、あいつらずっとあんな調子だったんすよ。まあ作戦とは言え、俺達のやってることもあまり褒められたもんじゃないですけど」
「そんなことないわよ。テル君が本気を出せば、あんな人達すぐ追い抜いちゃうでしょ? 手加減してあげたんだから、気にすることはないわ」
「ハハハ、それもそうっすね。
店長ー! これからはアタックして良いんですよねー?」
「ああ、坂に入ったら、もうこの作戦は使えない。マイペースで先行してくれ」
「もちろんですよ! 坂で一気に抜いてやりますから!」
「テル君、私も一生懸命走るから。私のことは気にしないで思いっきり走ってきて!」
「裕美さんに応援されるとヤル気が出てくるなあ。それじゃあアタックを決めますから、見てて下さいよ!」
裕美とエンゾ達は箱根湯本駅の手前で左に折れ、『三枚橋』を渡る。すると突然目の前に斜度10%の坂が飛び込んで来た。ヒルクライムのスタートだ!
「裕美さん、それじゃ行ってきますよ!」
「テル君、頑張って!」
テルとユタがサドルから立ち上がり、一気にダンシングで登り始めた。
その力任せのダンシングはお世辞にも上手いとは言えるものではない。時折、後輪がスリップする音が聞こえる。身体ごとペダルを踏みつけるため、そのパワーにタイヤのグリップが付いて来れないのだ。
しかし若さとパワーが溢れる二人は、そんなことは全く気にも留めないし、する必要もない。ダンシングでペダルを力強く踏みつつも、リズムよくクランクを高速で回転させる。燕が飛ぶ様に二人は一気に坂を登り、エンゾ達をあっという間に突き放した。
「じゃあーなー! エンゾー! 先に行くぜー!」
「あーっ、この餓鬼ぃーー! 待ちやがれぇーー!」
エンゾ達は二人に追い付こうとダンシングで必死に坂を登り始めるが、実業団でも走り、若さにも勝るテルとユタには敵うものではない。坂の途中で早くも疲れからシッティングに切り替え、あっと言う間にペースが落ちていた。
「ハア、ハア……。畜生……」
 エンゾらは呼吸を荒く、もはや声も消えそうだ。
一瞬で勝負は決まった――。
坂ではロードレーサーの最大の敵である空気抵抗の影響が少なく、走る人の実力差が如実に現れるのだ。余程のペース配分のミスをしない限り、一度差が付けば逆転はまず不可能と言って良い。
やったわね! テル君、ユタ君!
裕美はテル達が圧倒的なスピードでエンゾ達を抜いて行ったのを見て、小さなガッツポーズを決めた。
だが他人の勝利を喜んでばかりもいられない。裕美だって何としてもエンゾに勝たなくてはいけないのだ。
裕美はフロントのギアをインナーに落とし、リアも軽いギアにチェンジする。ペダルが軽くなり、そのスピードは10km/h前後まで落ちる。平地であれば、ママチャリ以下のスピードでしかないが、その坂を登るパワーは平地で換算すれば35km/hにもなるだろう。かなりのハイペースだ。その限界ギリギリのパワーで裕美はその坂を登り始めた。
このギリギリの、かつ一定のペーシングをリードしているのが“彼”とそのパワーメーターだった。
“彼”のバイクには“SRM”と呼ばれるパワーメーターが内臓されている。裕美が使っていた”Powertap”とは違い、クランクにパワーを計測するセンサーが取り付けられている。このSRMはパワーメーターの草分的な存在であり、その性能と信頼性においては”Powetap”以上と言って良い。
“彼”はこのパワー、つまりサイクル・コンピューターに表示されるワット数をチェックし走ることで、坂でも出力を一定にしつつ、しかも裕美の体力に合わせたペースで走ることが出来るのだ。タイムレースとも言えるヒルクライムでは、スタートでダッシュする様なオーバーペースは、後で大きなタイムロスを招き総合タイムは確実に落ちてしまう。エンゾ達の無闇なアタックが正にそれだ。これでまず裕美は一歩差を縮めたことになる。
裕美の現在のパワー出力は160W。この数値は乳酸閾値と呼ばれる、絶対限界領域を超える一歩、いや半歩手前の状態だ。確かに限界は超えていないものの、黄色と赤が入り交じる危険な状況であることには変わりない。
こんなギリギリのパワーで、箱根の峠を2回登ることなど到底出来ない! 1時間持ては上出来と言えるだろう。
リタイア覚悟の上の玉砕戦術だ!
「裕美さん、作戦通りこの1周目の坂を全力で登ります。2周目はありません。エンゾも今は明らかにオーバーペースです。絶対にペースを落とします。その時が勝負です!」
「分かったわ! 一度だけで良いから、あいつらを抜かせて!」
「もちろんです、裕美さん!」
 裕美は箱根旧道の最初の急坂約1キロを安定したペースで登り切った。次のブラインドコーナーを左へ曲がると、わずかだか傾斜が緩くなる。
「裕美さん! 少し平地を走ります! スピードを上げますから、気を抜かないで付いて来て下さい!」
彼はそう言うと、一気にスピードを上げ始めた。裕美が返事をする間もない。少し下り坂になっているのか、裕美もそれ程ペダルを踏んでいる訳ではないのにスピードがグングン上がる。すぐに右にヘアピンコーナーが現れた。アスファルトの荒れた路面だが、彼はペースを落とさず走り抜ける!
前の草津のヒルクライムでもそうだが、彼は緩い坂ではかなりのスピードで走るのだ。
初心者はキツイ坂で無理をして頑張って――。一方、平地や下りでペースを落とし休んでしまう。
しかしペースを乱高下させては、体力を無駄に消耗し、タイムも大幅にロスするだけだ。車でもそんな走りでは、燃費は相当悪いだろう。
ところが“彼”の走りは、初心者のそれとは全く逆のものだ。
斜度の緩い坂や平地でスピードを一気に上げるが、急坂では他人に抜かれることもお構い無しに大胆にスピードを落としてしまう。スピードの絶対差が大きく、初めは誰でも驚くが、その走りはパワーメーターで計算され尽くしたもので、出力を一定に保ち、最も効率的に坂を登るペースを維持している。
それに彼が平地で手を抜けない理由がもう一つある。
ドラフティングだ――。
時速15km/hを超えれば、ドラフティング効果は確実に発生する。ヒルクライムの様に遅い速度でも、その効果は決して無視出来ない。特にこの様な緩い坂や平地は、ドラフティングでタイムを稼ぐことの出来る、ヒルクライムでは数少ないチャンスだ。ここは多少無理をしてでも、“彼”の後ろを走らなくてはならない。
それに裕美をアシストするのは、“彼”だけではない。裕美はこのレースのために秘密兵器を用意してきている。プロがレースでも使うカーボン製の軽量ホイールをマドンに装備してきたのだ。
ボントレガーの"XXX LITE"《トリプル・エックス ライト》。
かのランス・アームストロングも使ったそのホイールは、軽量の極薄チューブラー・タイヤを装着すれば、廉価ホイールの半分程まで軽くなる。他にもペダルやハンドルに最先端機材を用い、軽量化の結果、今のマドンは裕美が指一本で持ち上がる程まで軽くなった。女性であり絶対的なパワーの劣る裕美にとっては軽量化の恩恵は少なくない。
この1カ月、裕美はあらゆる面でエンゾに勝つべく準備をしてきた。あとは“彼”の言葉を信じてペダルを踏むだけだ。