祭りのあと
意識しているのかもしれないが、あかねは認めたくなかった。認めたくないけれども、浩二の存在は気になっていた。
(なんで気になるんだろ。あんなやつ。そういえば、どっか行くって言ってたわね)
ふと、先ほど小耳に挟んだ話を思い出した。(ふうんだ。外国でも月でも行っちゃえばいいのよ)
あかねは浩二を凝視した。
その視線に気がついたのか、浩二は御輿から離れて、あかねのそばに戻ってきた。
「なんだ。あかね」
「べ、別にぃ。続ければいいじゃん」
「一回りしよ」
浩二はあかねの手を取ると、歩き出した。
「ちょっと。どこへ行くのよ」
浩二は答えず、ずんずん歩いていく。いつのまにか人混みをはなれ、神社の鳥居の下に来ていた。
それから階段を上っていく。あかねは浩二の手をふりほどこうとしたが、強くつかまれ離れない。
「な、なによ。はなしてよ」
七十二段の階段を上りきったところで、
「ほら。見ろよ」
浩二が指さした。
振り返ると、町並みが見渡せる。暗い闇の中、縦横無尽にともった提灯の明かりが星をちりばめたようで、あかねは目を見張った。
「きれい」
思わずつぶやくと、
「な?」
浩二が得意げに言った。
微かに山車のお囃子の音が聞こえ、香具師の店の明かりが瞬いている。その中をゆっくりと御輿の明かりが移動していく。
「そういえば……」
「なんだよ」
「御神輿って上から見ちゃだめだったんじゃない? 罰が当たるって」
「ここからならだいじょうぶだよ」
「それもそうね」
丘の上の神社の社殿の前。街を一望できる場所だが、こんな夜に上ってきたのは初めてだった。石段の両側には提灯が並ぶ。
街の様子をうっとりと眺めているあかねを、ふいに浩二が抱き寄せた。
あかねは息が止まる思いがして、身体を堅くした。
「あかね……おれ」
浩二の息がかかる。酒の匂いにあかねは眉をしかめた。
「いや。お酒くさい」
浩二から逃げようとしたが、強く抱きしめられ逃れることができない。
あかねの唇を浩二の唇がふさいだ。あかねは身体の力が抜けて行くのを感じた。
頭の奥がくらくらする。まるで魔法にかかったかのように、あかねは浩二の口づけを受け入れていた。
やがて、浩二はあかねの浴衣の襟をはだけ、大きな熱い手で、そのふくらみを包んだ。
その時、あかねははっと我に返った。
「ばか!」
浩二のほおに平手打ちし、あらん限りの力で突き飛ばすとその場から逃げ出した。胸がドキドキする。ほおが熱い。
浩二はあっけにとられて、その場に立ちつくしていた。
「いやらしい。あんなヤツ、宇宙の果てまで飛んでっちゃえ!」
とうにうぶな年頃は超えていたけれど、突然の出来事に狼狽したあかねだった。
祭りが終わった次の日。店に浩二がやってきた。
あかねは浩二を無視して、店の奥に引っ込んでしまった。
「ごめんなさいね、浩二くん。いらっしゃい」
代わりに奥から八重が出てきて応対した。
「あれ? 八重ちゃん、まだ帰らないの?」
「ええ、今週いっぱい休みとってあるから」
浩二は天ぷらそばを注文した。足下に荷物があるのを見た八重が浩二に尋ねた。
「ねえ、もしかして、その荷物」
「うん。これから行くんだ」
「オーストラリアだっていったっけ? 漁業研修」
「ああ。だからあかねにもちょっとあいさつしようと思って来たんだけど……」
「あかねちゃん。夕べからおかしいのよ。なんかあったの?」
浩二は急に気恥ずかしくなって、赤くなって下を向いた。
「うふふ」
八重はすべてお見通しというような笑みを浮かべた。
「で、その研修って、三年も行ってるの?」
「あ、昨日義治がそう言ったっけ……」
まだ客もまばらな店の中で、八重と浩二はしばらく話をした。
「じゃあ、あかねちゃんにいっとくわね」
店先で八重が浩二を見送った。
駅に向かった浩二は、出発前にあかねに会えなかったことが幾分心残りだった。
「あかねちゃん。今、浩二くん行ったよ」
部屋に閉じこもったあかねに八重が声をかけた。
「そう。あんなやつ。宇宙の果てまで行っちゃえばいいのよ。二度と帰って来るなって」
八重はくすくす笑いながら、ふすま越しにあかねに言った。
「本当は好きなんでしょ」
「そ、そんなことないわよ」
「そう。浩二くん。もう帰ってこないらしいわよ。オーストラリアから」
「そ、そう。それならこの街も静かになっていいわね」
「そんなこと言って、ほんとうにいいの?」
「八重ちゃんには関係ないじゃない」
「まあね。でもねぇ、浩二くんにあかねちゃんにさよならって言ってくれって頼まれちゃったから」
さよなら……。
ふだんなら何気ないことばだ。けれど、今のあかねにとってはちがった。
帰ってくるなと口では言っても、本心は……。
いざ帰ってこないということばを聞くと、居ても立ってもいられなくなった。
「何時の電車?」
「十二時半だから、あと五分しかないわよ」
あかねはあわてて部屋から飛び出すと、駅に向かった。全速力で走る。
「行かないで。行かないで。浩二」
あかねは本当の気持ちをつぶやいていた。
十二時半の電車がホームに入ってきたとき、ちょうどあかねは駅に着いた。急いで入場券を買い、ホームにでる。浩二の姿を必死で探すが、見あたらない。
やがて、ドアが閉まり電車はゆっくりと動き出した。あかねはなおも電車の窓から中をのぞき込む。
けれど、浩二の姿をついに見つけることはできなかった。
「ばか……」
あかねはつぶやいた。それは浩二に、というより自分に向かって言ったことばだった。涙があふれてくる。
あかねはホームに立ちつくし、泣いていた。
「きてくれたのか?」
背後で浩二の声がした。空耳かと思って後ろを向くと、あかねの目に浩二の姿が映った。
あかねはぽかんとした顔で浩二を見つめた。
「間抜けな顔して……」
浩二があかねのおでこを指でつついた。
「なによ。なんでここにいるのよ」
「おれ、一時半ので行くんだ。早く来過ぎちゃったんだ」
「え?」
あかねはやっと八重にだまされたことに気づいた。
「八重ちゃんったら」
「こうでもしないと、おまえ、おれと会ってくれないからな」
「ん、もう! やっぱり帰ってこなくていい!」
「ほんとうか? ほんとうにそう思っているのか?」
浩二があかねの腕をつかんだ。あかねは浩二の目を見た。いつもふざけている浩二が真剣なことは見て取れた。
「今頃、二人ともちゃんと話し合っているかな?」
昼時で忙しい店の厨房で八重が言った。
「ふたりとも意地っ張りだからな」
菊池も笑っている。
「だけどねぇ、あかねは跡取りなんだし。漁師の女房だなんて……」
母親はいささか不満げだが、まんざらでもなさそうだ。
「ところで、浩二くんが三年もあっちに行ってるってのは本当なのかい?」
「ううん。三ヶ月よ」
「ええ? じゃあ、あかねは三年だと思いこんで……。八重ちゃんもやるねえ」
母親がなかば呆れたように言うと、八重はぺろっと舌を出した。
「あら、おばさん。そんなもんじゃないわ。ずうっと帰ってこないっておどかしたの」
厨房に笑い声が響いた。