1月 雪虫
数日後、ユキはあっさり辞めていなくなった。
「雨宮ちゃーん!元気ー? ご飯行こうって言ってたのに、いつ行くのー?」
年明け、翠からの突然の電話にユキは驚いた。
「久しぶりですー!翠さんってあたしの電話番号知ってたんですかー?」
「一応チーフだから履歴書みたのー」そう言って明るく笑った。翠の笑い声は、耳にとても心地良い。と、ユキは思っていた。
「ずっと連絡出来なくてごめんなさーい!色々と学校が忙しくて・・・!」
思わず本当の事を口走ってしまってから、ユキは気付いて慌てて焦った。
「そっかぁ。もう3年生だもんねー進学するのー?」翠は普通に聞いてくる。
「え? 翠さんってあたしが高校生だって知ってたっけ?」ビックリして、聞き返してしまった。
「浜崎君から聞いたから、知ってるよーん」
はーまーさーきー!あの弱キモ男、裏切ってやがったー!すっかり忘れていた憎しみと恨みがメラメラと燃え上がり始めた。ところが、翠の意外な言葉で一瞬にして消沈して驚きに変わった。あまりに意外過ぎて思わず聞き直してしまった程だ。
「浜崎君と付き合ってるから」
「え、えー!どうして?!どうして翠さんがあんな弱キャラとぉー」彼氏を悪く言ってはいけないと思い、キモイは省いた。
「弱キャラ!あはははっ!うーん・・何でだろうねーあたしもわかんないな。何か放っとけない弟みたいな感じだったんだけど、奴の不可思議キャラが面白いなって思って、遊んでるうちに何故か付き合う事になったー」
どうしてそうなるのか全く理解出来ない。翠さーん!浸食されないでー!気付いてー!と叫びたい反面、翠さんにはあの気持ち悪いだけの浜崎の良さがわかるんだぁーと何となく人間として尊敬をしてしまった。
「もうすぐ一緒に住む予定ー」
同棲ですか。大丈夫ですか。ちゃんと現実見えてますかと、喜んでいいのやら心配していいのやら恐ろしく微妙な気持ちがしたが、翠の嬉しそうな顔が、目に浮かぶような声に祝福するしかない。「おめでとうございます!良かったですね」
数日後、冬のよく晴れた羊雲が散歩する日曜日。ユキは翠とファミレスで会った。あの後、何回か電話で話したが、翠は浜崎にかなりぞっこんな様子で毎回嬉しそうに色々と報告してくる。本当に大好きなんだな。そのラブラブぶりから、下手したら浜崎まで連れてくるんじゃないかと、些か不安だったがそんな事はなかった。
久しぶりに会った翠は、恋する女の代名詞みたいにキラキラ輝いて、元々明るかったのが更にパワーアップしたように見えた。身なりも女らしい素材のふわふわしたバルーンスカートや、淡い色のトップスを重ね着して、ロングブーツで決めていた。
ユキは着古したデニムにグレーのフード付きトレーナーという男の子みたいな格好だった。最近は趣味の買い物にも行けてない。恋はおろか、お洒落をする余裕もなかった。髪は相変らず艶がなく固くて、あまり伸びてなかった。
「なんか翠さん、女度上がりましたねー」
以前はもっとラフな格好をしていただけに、正直素直に翠の変わり具合にユキは驚いた。「浜崎さんのお陰ー?」
「あはは!雨宮ちゃんは男度が上がったねーでも可愛いよっ!あたしは、レアに近いステーキがいいなー」
格好とは打って変わって相変わらずの肉食だった。
「あたしはハンバーグステーキにしよー。もう浜崎さんと同棲してるんですかー?」
何気ないユキの質問に、見る間に翠の頬が赤く染まった。電話で話した感じまんまなんだと悟った。
「うーん・・してるって言うか、あたしのマンションに奴が転がり込んできてる感じで。あはは」
本当は話したくて仕方ないのに煙たがられると思ってか、遠慮して曖昧にしか言わない翠が何だか気の毒になってきた。
「実は、ずっと浜崎君の事気になってたんだけど、奴は雨宮ちゃんの事気に入ってるみたいだったから諦めてたんだよ。私にも終わりかけだったけど、付き合っていた人がいたしね」
「その人とは結婚にならなかったんですか?」
「なる前に別れちゃった。あたしは結婚しようと思ってたんだけど向こうがね・・色々とややこしい事情があったみたいで。それで振られた私を浜崎君がご飯食べに連れて行ってくれて、話を聞いて貰って慰めてくれたんだよ」
慰めるって・・・何かするって事ですか。そうなんですか。流石ですね浜崎さん。手が早いんですね。最低です。マジで。
「はぁ、そうなんですかぁ」
「そうそう。今度、家に遊びに来てねー」
何か、何か持って行った方がいいんだろうか? 出掛ける前にユキはふと思い当たった。人の家を訪問するのだから、当然用意しておかなければならないものだった筈だが。ま、いいか。そんな軽い気持ちで出掛けた。
別に行く義理はなかったけど、翠の事を人間的に好意を持っていたので、行ってもいいかなと珍しく思った。
教えてもらったマンションは、30階建てくらいの高層マンションだった。なのに狭いエレベーターホール兼入口はやけに粗末で、ずらっと並んだ小さく口を半開きにしているポストにはチラシや広告がぎっしりと詰まっていた。
大人が2人くらいしか乗れなさそうな、これ又狭い正方形のエレベーターに乗って15階まで上がった。扉が開くと吹きさらしの廊下に出た。谷間風が吹き上げ、ユキの固い髪を散らした。ビルとビルの青い隙間に、遠く白い雲がのんびり流れて行くのが見えた。結構良い眺め。寒いけど気持ち良いな。ここで翠さんは日常を過ごしてきたんだ。誰かの住んでいる家に行くのは、その人の人生を覗き見たみたいで何だか気恥ずかしい。その人の性格、好み、趣味、癖、好みの人まで見える様で、あまり気持ちの良い物ではない。出来ればそんな要素知らない方が、上手くいく場合だって結構ある。いや。だいたい上手くいくよ。ユキはそう思っていた。でも、結婚となると全く違うのかな。そこら辺は、あたしにはまだ未知の領域だな。教わった部屋番号のインターフォンを押した。微かにカレーの香りがする。
翠はくたびれたエプロンを引っ掛けてすぐに出てきた。「いらっしゃーい!もうすぐ奴も帰って来ると思うから、遠慮せずに上がって!」はぁと曖昧に相槌を打ちながら、いや、別に浜崎には会いたくないし、むしろいらないと心で思う。
スリッパを引っ掛けてこざっぱりとした部屋に入った。1DKの2人で暮らすにはギリギリの広さだった。翠のさっぱりとした性格から元々調度品や家具が少ないのかテレビに低めの箪笥に座卓、ベッドだけのシンプルな部屋だった。鏡台もなければ、女性なら当たり前の服飾関係の小物すらない。部屋中にカレーの匂いが充満していて、まるでカレーの中にいるみたいだった。ユキは急激にお腹が減ってきた。何故か不自然にリビングの真ん中に大きな仏壇が置かれてある。誰かの位牌だろうか。
「狭いでしょー元々あたし一人で住んでたからねー」翠がお鍋の火を消して、換気扇の下に行きキャスターに火を点けた。
「引っ越す予定とかないんですか?」
仏壇に書かれたミミズがのたくったような難しい字を解読しようと試みながら、ユキが聞いた。
「あるよ。近々、浜崎君の実家に引っ越すんだーそうそう。籍入れたんだよ。あたし達」