1月 雪虫
「ご馳走様です!奢って頂いてありがとうございます・・・!」
お礼を言って店から暗くなった通りに出た途端に、ユキの顔にいきなり虫が引っ付いてきて慌てて払った。手の平に白く潰れた線が短く伸びた。何だろうと思ってつくづく眺めていると後ろから翠が覗き込んだ。
「どうしたの? あぁ。雪虫だね」
「雪虫?」そんな白い物を初めて見たユキは首を傾げた。
「最近は温暖化かなんかでめっきり減ったからね。そんなに見ないけど、昔はいっぱいいたんだよ。雪の降る前兆に飛ぶとか何とか。ま、人間が風流だロマンだとかで洒落込んで勝手に言ってるんだろうけどね」
へぇーと白い息を吐いて頷いて聞いているユキを、苦笑いして見遣った翠ははははと軽く笑った。
「雨宮ちゃん現代っ子だもんなぁーもうこんな事で世代が別れるようになっちゃったのかぁ。くぅー」
冗談めいてそう言って翠は梅干しを食べた時のような顔をしてキャスターを抜き出した。一本口にくわえて、鞄の中を掻き回してライターを探している。その煙草の先にフワリと白い綿みたいなものが舞い降りてきた。それは小さくて、綿埃や焼却炉から飛び出した燃え屑のように見えなくもないけれど、ちゃんと白い色をしたものだった。
「翠さんこれ、これでしょ? 雪虫」
ユキに言われて翠が顔を上げた途端、雪虫は透明な羽を広げてふわっと宙に浮かんだ。
「あ、ほんひょら。ほうほう。ほれひゃよ、ひゅひむひ」キャスターを口にくわえたまま話すものだから、翠はほひゅほひゅ言っている。雪虫はフワフワと浮遊するように飛び、ユキが手の平で下から掬うようにすると難なく乗っかってきた。
「可愛い。本当に雪みたい」
「でしょ。こいつら実はアブラムシの仲間なんだよ。雨宮ちゃんのユキと同じ雪」ようやく火を点けた煙草を吸った翠が満足そうに雪虫に負けないくらいの真っ白い煙を吐き出すと夜空を振り仰ぎながら標準語で話した。ユキも吊られて見上げた夜空にはオリオン座が見えた。いつになく寒い今夜はきっと星も綺麗に見えるのだろう。主張するように手の平から飛び立ってユキ達の視界に入ってきた雪虫が、夜空に輝く小さな星の1つみたいに白く遠ざかっていく。
「あたしも雪虫みたいになれるかなぁ・・・」
「え? アブラムシみたいにって事?」翠が煙を吐き出し大笑いし始めた。
「違いますよー。雪虫みたいな人に・・・って意味わかりませんね。言ってて意味わかりませんでした」
「雪虫は、こうやって飛んでるのはみんな雌なんだって。だからうちらは既に合格だよ」翠が親指を立ててにっと笑った。
嬉しそうに頷いたユキを優しく眺めながら「帰ろっか」と促して翠は歩き始めた。雪虫は雪ではないけれど、雪のような外見に雪のようにすぐに潰れてしまう儚い体を持っている。それが、雪に焦がれてもなれなかった成れの果てみたいに思えて、何だか物悲しかった。実際はもっと現実的な機能と生態を兼ね備えてああなったのだろうけど、それにしたって雪のように淡い命で何となくでも浮遊しながら生きているのに存在を主張しているようなその小さな姿がやけに印象的だった。あたしもせめてそんな風に生きられたらいいな。翠の後について歩きながらユキはそんな事を思った。
雨宮さん来ないな・・・
浜崎はさっきから突き刺さる店員の視線に堪えながら、くしゃくしゃになった食券を握りしめ、20時をとっくに過ぎた時計を睨んだ。こうしてかれこれ5時間は待ち続けている。空腹も通り過ぎ、殆ど感じなくなっていた。ふぅ。小さく息をつくと、仕方なく字が消えかかった紙屑と化してしまった食券をそっとカウンターに置いた。店員が素早くそれを摘まみ上げ、奥に向かって怒鳴った。「牛大盛り1つー!」浜崎は握っていたもう1つの元食券だった紙切れを、ポケットに突っ込んだ。
いくら俺が痩せの大食いでも、牛丼大盛りの後に、並もりでも豚丼は食えない・・・。
それから数週間後だった。掃除中に、元々良くない顔の色を更に真っ白にして浜崎がいきなり卒倒した。慌てて用務員室には運び込んだが、ジムを担当している元看護婦のアーちゃんに貧血だねとあっさり言われた。
「浜崎君って儚気キャラだしねー」
「どーしようもないキャラねー仕方ない。ちゃっちゃと掃除片してきちゃうわ。悪いけど、浜崎君の様子、見といてやってね」
様子もなにも寝かしておけば絶対に大丈夫ですよ。だってきっとこいつは殺しても死にそうにないもんとは思ったが、翠にそう頼まれては仕方ない。ユキは、側のパイプ椅子に座って、明日の試験の為の参考書を出してきて眺め始めた。
ふと見ると浜崎は死人のような顔で白雪姫のごとく横たわっている。男のくせに貧血って・・・儚気って言うか、柔って言うか、キモイ弱キャラだよ。ユキは聞こえよがしに大きな溜息をついた。その拍子で参考書が浜崎の横たわるソファーの下に落ちた。面倒臭いなぁもう。こいつと関わるとろくな事がない等と苛々しながら、拾う為に屈んだ。
丁度その時、浜崎が瞼を開けた。ここは・・・あー俺倒れたんだっけな。昨日深酒し過ぎたからなぁ。上半身を起こして顔だけ動かして周りを見まわした。そんなに時間は経ってない。微妙に下から突き上げられるような振動がして、不思議に思って下を覗き込んだ瞬間、立ち上がろうとしたユキと正面衝突をしてしまい、更には口にキスをするような格好になってしまった。
ありゃー・・・ま、いいやー、てな感じで浜崎が味わおうとした刹那、ユキの猛烈なパンチがすごい勢いで飛んできた。左頰にまともに食らい、浜崎は又しても倒れ込んだ。
「最悪最悪最悪!死ね死ね死ね!」
ユキはユニフォームの袖で唇を何度も強く擦りながら、これ以上ない軽蔑と怒りと羞恥心が完璧に混ざったもの凄い眼差しを浜崎に向け、怒鳴りながら荒々しく出て行ってしまった。
「あれ? 雨宮ちゃん。浜崎君は? もう大丈夫だってー?」駆け寄ってきた翠に、ユキは少し動揺しながらも笑顔で答えた。
「すっかり大丈夫だそうでーす!」むしろ、もう二度と立ち上がれないくらい意識不明にしてやりたいくらいでーす。
その日の仕事上がり、ユキはマネージャーに今月いっぱいで辞める意思を伝えた。目標金額には僅かに届いていなかったが、毎日少しずつでもバイトをすれば充分間に合いそうだったので、予定よりもだいぶ早く退職する事にした。
「そっかぁ。雨宮ちゃんいなくなっちゃうのかー 寂すぅいなぁー」翠がキャスターを燻らせ呟いた。「でも又ご飯食べに行こうね」そう言って、ユキに電話番号とメールアドレスを書いた可愛いピンクの紙をくれた。
「もちろんです!遊びましょうね!」
バイトはたくさんしてきた。今まで何人の人とこういう言葉を交わしたのだろう。もう定番の別れの挨拶になりつつある。
勿論浜崎とは、あれ以来全く口をきいていない。浜崎もさすがに気まずいのか敢えて話しかけてこようとはしない。
雨宮さん辞めるらしいな・・・。浜崎は100円ライターでセブンンスターに火を点けた。俺のせいかな。
今日は冷える。煙草の煙に吐く息までが白くて視界が遮られる程だ。しっかし寒いなー。浜崎は色にすると黒っぽい雨が陰気に振ってくる空を見遣った。雨宮のユキか・・・