1月 雪虫
ユキは余計な事は省略して、極力簡潔に述べた。これ以上興味を持たれたら困る。話したくないの察せよ少しは。
「ちょっと借金してて一気に返そうと思った・・・」
終いまで聞かずして浜崎がいきなり膝を叩いた。
「偉い!すごい偉いよ!頑張ってね。俺、誰にも密告しないから」浜崎は興奮するようにして並べ立てると煙草を火がついたまま、指で弾いて後ろの茂みに放り投げた。どうやら頭の中のライブ会場は絶頂のままフィニッシュになったらしい。
「な、何してんの!あんた!そんな事したら火事になるじゃん!火くらい消して!バカじゃないの?放火魔!」
ユキは恐ろしい剣幕で怒り出し、浜崎が投げたまだ煙が出ている煙草を探し出し必死に踏みつけた。ユキは人間社会の道徳は疎かにしがちだったが、何故か環境問題にはうるさかったので、ゴミをしかも火がついたままポイ捨てをするなんて言語道断だった。
「え? 吸い殻拾うのが仕事の人に仕事与えてるだけだし。そのまま投げても、別に今まで平気だったよ。雨宮さんは大袈裟だなぁ」呑気にそんな事を口走っている浜崎の頭の中には次の曲が流れ出した。俺、この曲も好きだなー
ユキの眉間に寄せた皺が増々深くなった。そのまま投げ捨てるのが格好良いとでも思っているの? この人、頭おかしい。
「バカじゃない!非常識!いい歳こいて、そんな事やってる事自体がみっともないし!」
「年齢偽って働いてるのは非常識じゃない?」
思いの外反抗してきた浜崎に、ユキは真っ赤になって怒鳴り散らした。
「それとこれとは違う話!もうあたしに話しかけてこないで!関わらないで!」
怒り過ぎて震えすらなくなった足で大股に歩いて行った。一瞬、浜崎が告げ口して首になるかもしれないという思いが脳裏を横切ったが、もうどうでも良かった。あんな男となんて一緒に働いていたくない。首になるならなりやがれ!
短くなった薄暗い西日の中、怒りのオーラに揺れながら遠ざかるユキの後ろ姿を見送って、浜崎はセブンスターに火を点けた。・・・いいなぁ
「雨宮さん。この前怒らせたお詫びに飯ご馳走したいんだけど。仕事終わってから、そこの角の牛丼屋とかどう?」
昼も過ぎた頃、凝りもせず浜崎が話しかけてきた。うざい。牛肉嫌いと言って断った。
「なら豚丼食べれば? とりあえず待ってるから」
一方的に約束して、浜崎は奥にある水槽紛いのダイビングプールを掃除しに、ぶらぶらとプールサイドを歩いて行った。誰が行くもんか。ユキは、牧場の牛のようなのどかな雰囲気で歩き去る浜崎の後ろ姿を思いっきり睨みつけた。自分よりすね毛すらも薄い痩せた足が輪をかけて気持ち悪い。男のくせに。って言うか男だからって比較するの抜いても苛々するだけの奴。
「おはよー雨宮ちゃーん!今日終わってから空いてる? ご飯食べに行かない?」
背後から翠が朗らかに声をかけてきた。ユキは笑顔で振り返ると嬉しそうに即答した。「勿論ですっ!喜んで!」
「良かったー!じゃ、帰りに靴箱のとこで待ってて!あ、浜崎くーん!ちょっとー!そこ擦るのはそのブラシじゃダメでしょー え? 面倒だから一気にって? ヤバいってーあたしと同じで傷つきやすくてデリケートなんだからー」
翠は奥のプールに歩いて行ってしまった。翠さん、あんな男の世話まで大変だなぁ・・・
ユキは監視台に登り、小さな庇がついた椅子に座りながら、氷が溶けるようにゆっくりと水の中を歩いている肉付きが良過ぎるおばさんや、食べ終わりのフライドチキンみたいにすっかり肉が退化したおじいさんを見ていた。
スピーカーからは丁度良い音量で有線が流れていて、それが今の時間帯は洋楽紛いに変わっている。大きく空いた明かり取りの天窓からは穏やかな冬の日差しが柔らかく差し込み、外の寒さや乾燥とは無縁の室内の空調は温度と湿度がバランス良く保たれていてプールサイドの排水溝に時折流れ込む水の音は爽やかなヒーリングミュージック並に心地よく響いた。完璧。これで眠気を誘われない人は、きっと人間じゃない・・・
両足を揺らしながら、ユキはぼんやりと奥のプールに目をやった。まるで緑色のアメーバーが入っているような、なにかを秘めた濁った水は怪しく、微かに透明な水槽の中を動いているみたいだった。その外を、一生懸命擦っている翠と浜崎が見えた。翠は満面の笑みで浜崎に話しかけ、浜崎もまんざらでもない様子で話している。楽しそうじゃーん。あたしなんか相手にしてるより全然良いよ。
ユキは毎日、高校とバイトの行き帰りでハードな生活を送っていたので、以外と疲れが蓄積されていて更に勉強もしっかりしていたので明らかに寝足りなかった。眠い・・・視界がぼやけ始めるのすら気付かなかった。頭がお決まりの居眠りリズムをとり始めた。それに合わせて、気持ちよく瞼が空いたり閉じたり。いつのまにか頭の動きがグルーヴィー感溢れる横ノリから、激しい縦ノリに変わり、勢いよく深い眠りと飛び跳ね始めた時。ユキは前のめりに倒れそうになった。
監視台はプールサイドに埋め込まれて設置されているわけではなく、移動出来るキャスターなんかがついている、言っちゃ悪いけれど貧弱でちゃちな代物だった。なので完全に脱力したユキの体重に引きずられて、監視台もろとも全体的に危険な角度まで倒れそうになった。後ろに振り掛かる度に監視台がかなり振動するので、さすがのユキも危険を感じて下に降りたのだった。
危ない危ない。眠気覚ましに少し泳ごう。ユキは誰もいないコースに飛び込み、そのまま個人メドレーを流した。
あ、雨宮さん泳いでる。
浜崎はコールタールに進化した汚れがベットリくっ付いているプールを擦りながら、横目でぼんやり眺めた。
ふむ。フォームはなかなかだな。スイミングクラブ出ってとこかな。びしゃっと顔に水がかかって振り向くと翠がホースの先から水を出して、これ以上ない満面の笑みで浜崎を狙っている。「やっべ」プールの縁で滑って、腹這いになった。
「食らえー!うりゃー!あははははー!すごーい!浜崎君、ボウフラが水害にあったみたいー!」
「なんだそれ、全然すごくないじゃん」
翠の笑顔が眩しい。自分とは全く違う人種みたいだ。いや。女って言う、違う生き物か・・・
「雨宮ちゃん、眠いんじゃない? 大丈夫?」
心配そうな顔をした翠に突っ込まれて、覚醒したユキはやる気なく自分の手から落下した箸を気まずそうに拾った。中華料理店のお箸は立派過ぎて重過ぎるのが難点だと思う。
「最近何だか元気ないじゃん? ちゃんと眠れてる?」
眠れている以前に、眠る時間自体がないのです!心の中で叫びながら「ちょっと寝付きが浅くて」なんて、心配してくれている翠さんにまで嘘吹いている自分。時々面倒臭くなるけど、今年一杯と決めたこの仕事も、あと少しだから堪えよう。目標額まであと少しだった。さすがにこの生活がずっと続くとなると体も参ってしまうし。まだ翠には今年いっぱいで辞めると話はしていない。きっとすごくガッカリしてくれるんだろうな。申し訳ない気持ちがチクチクと胸を刺した。
「ここのおかずは美味しいよ。たくさん食べてたくさん寝るんだよー」
気持ちいい程笑顔の翠はユキのお皿に酢豚をたっぷりよそってくれた。