1月 雪虫
「・・・翠さんって、いつも明るくて素敵だなぁ」
休憩室の窓から足下に零れる明るくてほんのり温い冬の日差しで出来た図面を踏みながら、横で美味しそうに煙草を吹かす翠を眺めてふと呟いた。途端に翠は大笑いをして咽せた。
「あー苦しい!いきなり素敵とか言うからー咽せちゃったよ」涙目になりながらも変顔をしてユキを笑わせた。
「え、ごめんなさい。だって本当の事ですよ。翠さんは明るくて凄いなぁって。あたしには、真似出来ない」
「うーーん。まぁ、あたしにはそれ意外なーんもないからね」
満面の笑みでさらっと言う翠の横顔がなんだか寂しそうで、ユキは不意に胸が痛くなって慌てて謝った。
「なんで、なんで? 雨宮ちゃんが謝る事じゃないよぉ」
「でも・・あたし失礼な事言っちゃたから」
翠は困ったように笑うと、もう一本キャスターを抜き出して火を点けた。埃と塩素と湿気が混じり合った独特の空気が籠っている小さい部屋に、癖のある何処か懐かしい匂いの一筋の煙が昇って広がった。「おっさん煙草でしょ」翠はニカっと笑った。
「雨宮ちゃん、今度ご飯でも食べに行こうよ」
ぼんやりと頷いたユキに気付いたのか気付かないのか、翠は何処か天井の方を眺めていて、その横顔はいつもと変わらなかったが薄暗い部屋と差し込む光とのコントラストが造り出していた影のせいなのか、少し何かを思い詰めているようにも見えた。何とも言えない気分になったユキは翠から視線を落とすと、足下の図面を恨めしそうに何度も何度も踏みつけた。言わなきゃ良かったと後悔してはいなかった。ただ、本当は対して眩しくも温かくもないくせに、芯まで凍える程の陰気な寒さの中だからほっと安心できるような明るさを感じるだけの偽善者みたいな冬の光のせいなんだと漠然と思っていた。
「雨宮さん、怒ってんの?」
帰り道、又しても浜崎と一緒になってしまい、ユキは一刻も早くこの場を切り抜ける事に神経を集中させた。だいたいにして、この得体の知れない男は何か嫌だ。本能的に接触を一切受け付けられない。ユキは一生懸命靴の紐を結んだ。こんな時に限って紐を結ぶタイプのブーツだった。ルックスは好きなので頻繁に履くのだが、いかにせ紐が面倒臭かった。浜崎は先に履き終わり、その場に佇んで当たり前のようにユキの様子を眺めていた。
「何ですか?」そこにいないでよ。ゴジラのような目で見上げながらユキは苛々して問いを投げつけた。
「いや。別に・・」
浜崎はそれだけを独り言のように呟くと引き続き突っ立っていた。仕舞いには口笛まで吹き始め、手で膝を叩きながらリズムを取り始めた。いかにも待つのは億劫とかじゃないからと言わんばかりに。雨宮さんに傘の事謝らないとなぁ。
「いつかの雨の時に雨宮さんが貸してくれた傘さ、家に置いてあるんだけど。いつも忘れちゃって。ごめんね」
そう歌うように口ずさむ浜崎に、火山が爆発するんじゃないかと思われるくらいに青筋を立てたユキの苛々は最高潮に達していた。何なのこの男。気持ち悪いし、マジウザイ!やっと靴紐を結び終わったユキはすごい勢いで立ち上がった。
「いらないから、返してくれなくて結構ですから!」それだけを投げつけると、脱兎の如く急いで逃げた。
同じ頃、翠は事務所の窓から、ユキが慌てて走り去るのと浜崎が後から呑気について行くのを偶然見ていた。
「ねぇ、今のいらないって、傘の事だよね?」
元短距離選手だった浜崎は難なくユキに追いついた。予想外の事にユキの顔は怒りから恐怖へ変わった。気持ち悪い!
「いやー!ついて来ないで!気持ち悪いっー!」
必死に走って横断歩道を渡ろうとした時、車が急に突っ込んできた。それもその筈。信号は赤だった。あ・・・ヤバ。瞬間、勢いよく後ろに引きずられて、咄嗟に目を瞑った。手足に軽い痛みを感じた。
「もう大丈夫だよ」
相変わらずのテンポの浜崎の声がして、怖々と目を開くと夕焼けの眩しい信号の手前で座り込んでいた。
「まだ道路に食み出してるから、こっち」
腕を引っ張られて立ち上がり、更に引っ張られて歩いて行った。後ろを振り返ると、突っ込んできた乗用車はスリップしてはいたが、ガードレールギリギリで止まっていた。運転していた男性も無事らしかった。良かった。それだけを何とか確認した。
差し出された缶コーヒーを受け取りながら、ユキはまだ動揺している気持ちを宥めようとした。が上手くいかない。今更ながらカクカク震えている膝を浜崎に気付かれないように、持っているバッグで隠した。
「あの・・・ありがとうございました」
「いいよ。今度から気を付けてね。案外そそっかしいねー」
・・・って言うか、お前のせいだろ!? 気持ち悪く追いかけてきたから。何なのこいつ何なのこいつ。恐れの震えから怒りの震えにシフトチェンジしたのがわかった。無神経な浜崎はそんな事はどこ吹く風で、セブンスターに火を点けて美味しそうに吸っていた。ひび割れた分厚い唇から煙が蛇のように出て行く。ユキは怒り紛れで気味悪そうにその様子を見ていた。
「雨宮さん、ハードロック好きでしょ」
昨日好きなアーティストのライブに行ったばかりの浜崎の本日の話題は誰に対してもこれだった。悪気があったわけではないが、ただそれしか頭になかっただけだった。不可解な質問に、ユキは眉間の皺を更に深くした。
「は? 別に好きじゃないけど」
「じゃ、嫌い?」
普段はボヤーンとしてるくせに、興味を持った会話のテンポは速い。どうでもいいよ。そんな事。私には関係ないし、嫌だな。早く切り抜けて帰りたいんだ。考えていたが面倒臭くなって、ユキは唐突に返した。
「何が嫌いとか好きとか浜崎さんには関係ないでしょ?!」
「いや。関係なくないよ。だって楽しさを共有出来るのって、誰であろうと素敵だよ」
素敵・・・サラッと使った。男のくせに。そんな事言うか普通。男が。気持ち悪い。何この人。何かおかしい。自分が使って笑われた事は棚に上げて、ひたすらに浜崎の言動を拒否する思考を繰り出すユキはどうあっても共通の何かを作らせる隙を与えないように無駄かもしれないと解ってはいてもマイペースな浜崎相手に虚勢を張り続けた。
「で、雨宮さんって、実際のとこ幾つ?」
又しても全く関係ない不意を突かれて、咄嗟に言葉に詰まった。素直に言うべきなのか、嘘つくべきかのジャッジが一瞬でなされた。本来なら、信用なんて領域にすら入る事を許さない浜崎には話す義務はない。でも、どうやら話の端々で20じゃない事はバレているらしい。けど、今は自分の弱みみたいなものだし言いたくない。特に告げ口したりはしなさそうだけど。
「・・・17」迷った挙げ句、本当の事を吐いた。誤摩化して又付き纏われたくなかったからだ。
「高校2年生だ。どうして年誤摩化して働こうと思ったの」
自分から聞いてるくせに、浜崎は興味無さそうに大きな欠伸を1つした。それなら訊くなよ。何処までも失礼な奴だとユキは思った。浜崎の頭の中ではハードロックがかかっていた。あそこのサビは最高に盛り上がったなぁー・・・。
「ここは時給が高かったけど、高校生は採ってなかったから」