1月 雪虫
少女は理不尽そうに、駅のホームへ昇り切った階段の横に寄り掛かっていた。
艶が自慢のトリートメント製品売り込み広告の、比較の使用前写真にでも出されそうな肩までの固そうな多く黒い髪。淡い色をした、上着に薄いシフォン素材の長袖トップスと濃い色をしたデニムのショートパンツを纏った痩せ気味の体から、黒いニーハイソックスにショートブーツを履いた棒のような足が突き出ている。その若さを全面に押し出したような格好からして、恐らく高校生。下手したら中学生かもしれない。電車を待っている周りの人間を、鋭く射るような目つきで見回している。
苛々と不機嫌そうに、子ども連れで声の大きな家族を忌々しそうに睨みつけ、若い母親らしき女と目が合っても構わず眼垂れ続けた。電車がホームに滑り込んで来た。
一体何がそんなに苛々するのか、少女は敵意を剥き出しにして自分の怒りを最大限に表現するかのように、レースがプリントされラメで装飾された小振りな黒バッグを肩にかけ腕を大仰に振りながら、見せつけるように乱暴に歩いて車内に入ると、いかにも不機嫌そうに座席に座った。まるで、この世界全てに訳もなく腹が立っているみたいだった。思春期だとしたら、反抗期か物思いのお年頃か。少女は聖蹟桜ヶ丘に停車すると立ち上がり、やっぱり乱暴な歩き方で降りていった。
いくら怖い物知らずの年頃にしても、些か度が過ぎている。あんなに丸出じゃ喧嘩を売ってるようなものだ。偶然同じ駅で降りた前を歩く少女の背中を、浜崎はぼんやりと目で追った。少女は駅ビルの中に姿を消した。多分、買い物でもするんだろう。
まぁ、関係ないし。どうでもいいや。浜崎は古本屋に寄って100円の文庫を買うと、セブンスターをくわえ火を点けて帰路に就いた。立ち籠めた鈍い色の高層雲からポロポロと冷たい雨が降り出してきた。帰ったら、ガンズ&ローゼスを聞きながらビールを飲もう。明日は休みなんだし、時間はたっぷりある。
再びその少女に会ったのは、色褪せた紅葉を慰めるような小雨が降りしきる秋の終わりだった。浜崎が働くスポーツクラブにアルバイトとして入ってきた。確か、うちのスポーツクラブは二十歳からしか採用してないんじゃなかったっけ・・・
「へーうちのクラブも、とうとう若年層を入れる事になったんだな。イメージアップ?」
何となくそう口にした浜崎に同僚が不思議な顔をして答えた。
「は? 何言ってんだよ。彼女、あー見えて20歳だってさ。専門学校生なんだと。若く見えるよなー」
おいおい。嘘だろ。そんな筈ないだろ。こんな落ち着いてない二十歳がいるもんか。世間知らずも良いとこだ。
「宜しくお願いしまーす」
ニコニコと挨拶してはいるが、浜崎には幼さが見え隠れしてとても二十歳には見えない。それに先日、あんな光景を見てしまったものだから。あの駅のホームから一連の態度を思い出すと不自然さを感じても仕方なかった。
少女は先輩の翠について、水着にクラブティーシャツを着て、仕事の手順を教わっていた。ジムではなくスイミングの方らしい。浜崎の受け持ちは、小学校クラスの背泳ぎと、中年クラスの水中エクササイズだった。指導しながら、時々視界の隅から現れたり消えたりする少女が小蠅のように気になった。
仕事が終わり、夕方上がりの浜崎は弁当箱をぶら下げて従業員用下駄箱に行くと、例の少女とかち合った。そういえば名前も聞いていなかったので、親し気に浜崎から声をかけて名前を聞いてみた。
「お疲れ様。君、新人の子だよね。名前、なんて言うの?」
少女はいつかと同じ艶のない固そうな半乾きの髪を柳のように垂らして、濡れた運動靴を履きながら浜崎を横目でじっと見た。お世辞にも笑ってはいなかった。気のせいか眉間に薄い影が見える。名前を聞いたのがそんなに嫌だったのか?
「雨宮ユキ」
吐き捨てるように言うと、すたすた足早に歩いて行った。浜崎は靴をつっかけると急いで後を追った。
「ねえ、待ってよ。君さぁ、二十歳じゃないでしょ。本当のとこ、高校生くらいなんでしょ」
ゼンマイ仕掛けの玩具のゼンマイが切れていきなり静止するように雨宮ユキは機械的に止まると、横に追いついて来た浜崎をふっと睨んだ。駅のホームで親子連れを睨んでいたあの、無駄に憎しみがかった目。止んでいた雨が音もなく降り始めた。ユキは持っていた傘を大袈裟な程勢いよく開いてさした。
「あー俺、傘持ってくんの忘れたよ。雨宮さんが慌てさせるからだ。責任取って傘に入れてくれ」
これまた大袈裟なくらいに深く眉間に皺を寄せて、不満そうにユキは前を見たまま無言でそれでも浜崎に傘をさしかけた。雨が濡らすアスファルト特有の臭いと土臭いうっそうとした臭いに混じって、浜崎がシャツのポケットに入れているセブンスターの香りが、知らない振りをしてユキの鼻孔を横切った。
「煙草・・・」
呟いたユキの言葉を聞こえなかった振りをして、浜崎はポケットから携帯を出し時間を確認した。
「雨宮さんは近くに、住んでるの?」
頑なに前だけを見ていたユキが、ゆっくり浜崎を振り返った。怖い位の満面の笑みだった。
「何処に住んでようと関係ないでしょ」そう言うと浜崎の手に傘を押し付けて、雨の中を走って行ってしまった。残された浜崎は唖然としたまま、ユキの傘を片手に肩をすくめてセブンスターに火を点けた。やれやれ。
「翠さーん!トイレ掃除終わりましたー!次、何すればいいですか?」
笑顔のユキがプールサイドを元気よく歩いてくる。
「あ、もう終わったんだねーすごいじゃーん 早ーい 優秀ー」
浜崎とコース設定をしていた翠が負けずに元気よく返した。浜崎よりも3つ年上の翠は、強気な性格と面倒見の良さもあり、このスポーツクラブの姉御的存在だった。社員の中では一番の古株でオーナーからの信頼も厚く、既にチーフの肩書きも持っていた。けれど、実際の翠は横柄になる事もなく、持ち前のキャラと明るさで要領よく仕事をこなしていた。日本画に描かれる女性のような切れ長の目とストレートの長く綺麗な髪が印象的な翠は、自分よりも遥かに背の高い浜崎と話す時はいつも首が痛そうだった。
「うーん。もうこっちも終わっちゃってるから、一服つけてきていいよん。浜崎君のとこも特に何もないでしょ?」
よくスヌーピーの人間バージョンと言われる浜崎は、やる気のなさそうな天然パーマの頭をぼんやりと横に振った。そして、口元に出てきたニキビを指で弄りながら聞いた。
「雨宮さんは、煙草、吸うの?」
一瞬、ユキの目元に皺が寄ったのを浜崎は見逃さなかった。
「はぁ、まぁ」
「なら吸わないに越した事はないよ。まだ若いんだし、止めたら?」
別に悪意で言った訳じゃなかったが、この浜崎の言葉でユキは思いっきり不機嫌になったのがわかった。顔には一応まだ笑顔が張り付いてはいたが、引き攣ったような何かを我慢しているような雰囲気の筋肉の使い方に変わったのが明らかだった。
「浜崎君なんて生粋のヘビスモのくせに、雨宮ちゃんにそんな事言えないじゃーん。もちろんあたしもさ」ユキの様子に気付かない翠が上手に間に入ってユキを連れて行ってしまった。浜崎は静かに口笛を吹きながら、念入りにストレッチをし始めた。
艶が自慢のトリートメント製品売り込み広告の、比較の使用前写真にでも出されそうな肩までの固そうな多く黒い髪。淡い色をした、上着に薄いシフォン素材の長袖トップスと濃い色をしたデニムのショートパンツを纏った痩せ気味の体から、黒いニーハイソックスにショートブーツを履いた棒のような足が突き出ている。その若さを全面に押し出したような格好からして、恐らく高校生。下手したら中学生かもしれない。電車を待っている周りの人間を、鋭く射るような目つきで見回している。
苛々と不機嫌そうに、子ども連れで声の大きな家族を忌々しそうに睨みつけ、若い母親らしき女と目が合っても構わず眼垂れ続けた。電車がホームに滑り込んで来た。
一体何がそんなに苛々するのか、少女は敵意を剥き出しにして自分の怒りを最大限に表現するかのように、レースがプリントされラメで装飾された小振りな黒バッグを肩にかけ腕を大仰に振りながら、見せつけるように乱暴に歩いて車内に入ると、いかにも不機嫌そうに座席に座った。まるで、この世界全てに訳もなく腹が立っているみたいだった。思春期だとしたら、反抗期か物思いのお年頃か。少女は聖蹟桜ヶ丘に停車すると立ち上がり、やっぱり乱暴な歩き方で降りていった。
いくら怖い物知らずの年頃にしても、些か度が過ぎている。あんなに丸出じゃ喧嘩を売ってるようなものだ。偶然同じ駅で降りた前を歩く少女の背中を、浜崎はぼんやりと目で追った。少女は駅ビルの中に姿を消した。多分、買い物でもするんだろう。
まぁ、関係ないし。どうでもいいや。浜崎は古本屋に寄って100円の文庫を買うと、セブンスターをくわえ火を点けて帰路に就いた。立ち籠めた鈍い色の高層雲からポロポロと冷たい雨が降り出してきた。帰ったら、ガンズ&ローゼスを聞きながらビールを飲もう。明日は休みなんだし、時間はたっぷりある。
再びその少女に会ったのは、色褪せた紅葉を慰めるような小雨が降りしきる秋の終わりだった。浜崎が働くスポーツクラブにアルバイトとして入ってきた。確か、うちのスポーツクラブは二十歳からしか採用してないんじゃなかったっけ・・・
「へーうちのクラブも、とうとう若年層を入れる事になったんだな。イメージアップ?」
何となくそう口にした浜崎に同僚が不思議な顔をして答えた。
「は? 何言ってんだよ。彼女、あー見えて20歳だってさ。専門学校生なんだと。若く見えるよなー」
おいおい。嘘だろ。そんな筈ないだろ。こんな落ち着いてない二十歳がいるもんか。世間知らずも良いとこだ。
「宜しくお願いしまーす」
ニコニコと挨拶してはいるが、浜崎には幼さが見え隠れしてとても二十歳には見えない。それに先日、あんな光景を見てしまったものだから。あの駅のホームから一連の態度を思い出すと不自然さを感じても仕方なかった。
少女は先輩の翠について、水着にクラブティーシャツを着て、仕事の手順を教わっていた。ジムではなくスイミングの方らしい。浜崎の受け持ちは、小学校クラスの背泳ぎと、中年クラスの水中エクササイズだった。指導しながら、時々視界の隅から現れたり消えたりする少女が小蠅のように気になった。
仕事が終わり、夕方上がりの浜崎は弁当箱をぶら下げて従業員用下駄箱に行くと、例の少女とかち合った。そういえば名前も聞いていなかったので、親し気に浜崎から声をかけて名前を聞いてみた。
「お疲れ様。君、新人の子だよね。名前、なんて言うの?」
少女はいつかと同じ艶のない固そうな半乾きの髪を柳のように垂らして、濡れた運動靴を履きながら浜崎を横目でじっと見た。お世辞にも笑ってはいなかった。気のせいか眉間に薄い影が見える。名前を聞いたのがそんなに嫌だったのか?
「雨宮ユキ」
吐き捨てるように言うと、すたすた足早に歩いて行った。浜崎は靴をつっかけると急いで後を追った。
「ねえ、待ってよ。君さぁ、二十歳じゃないでしょ。本当のとこ、高校生くらいなんでしょ」
ゼンマイ仕掛けの玩具のゼンマイが切れていきなり静止するように雨宮ユキは機械的に止まると、横に追いついて来た浜崎をふっと睨んだ。駅のホームで親子連れを睨んでいたあの、無駄に憎しみがかった目。止んでいた雨が音もなく降り始めた。ユキは持っていた傘を大袈裟な程勢いよく開いてさした。
「あー俺、傘持ってくんの忘れたよ。雨宮さんが慌てさせるからだ。責任取って傘に入れてくれ」
これまた大袈裟なくらいに深く眉間に皺を寄せて、不満そうにユキは前を見たまま無言でそれでも浜崎に傘をさしかけた。雨が濡らすアスファルト特有の臭いと土臭いうっそうとした臭いに混じって、浜崎がシャツのポケットに入れているセブンスターの香りが、知らない振りをしてユキの鼻孔を横切った。
「煙草・・・」
呟いたユキの言葉を聞こえなかった振りをして、浜崎はポケットから携帯を出し時間を確認した。
「雨宮さんは近くに、住んでるの?」
頑なに前だけを見ていたユキが、ゆっくり浜崎を振り返った。怖い位の満面の笑みだった。
「何処に住んでようと関係ないでしょ」そう言うと浜崎の手に傘を押し付けて、雨の中を走って行ってしまった。残された浜崎は唖然としたまま、ユキの傘を片手に肩をすくめてセブンスターに火を点けた。やれやれ。
「翠さーん!トイレ掃除終わりましたー!次、何すればいいですか?」
笑顔のユキがプールサイドを元気よく歩いてくる。
「あ、もう終わったんだねーすごいじゃーん 早ーい 優秀ー」
浜崎とコース設定をしていた翠が負けずに元気よく返した。浜崎よりも3つ年上の翠は、強気な性格と面倒見の良さもあり、このスポーツクラブの姉御的存在だった。社員の中では一番の古株でオーナーからの信頼も厚く、既にチーフの肩書きも持っていた。けれど、実際の翠は横柄になる事もなく、持ち前のキャラと明るさで要領よく仕事をこなしていた。日本画に描かれる女性のような切れ長の目とストレートの長く綺麗な髪が印象的な翠は、自分よりも遥かに背の高い浜崎と話す時はいつも首が痛そうだった。
「うーん。もうこっちも終わっちゃってるから、一服つけてきていいよん。浜崎君のとこも特に何もないでしょ?」
よくスヌーピーの人間バージョンと言われる浜崎は、やる気のなさそうな天然パーマの頭をぼんやりと横に振った。そして、口元に出てきたニキビを指で弄りながら聞いた。
「雨宮さんは、煙草、吸うの?」
一瞬、ユキの目元に皺が寄ったのを浜崎は見逃さなかった。
「はぁ、まぁ」
「なら吸わないに越した事はないよ。まだ若いんだし、止めたら?」
別に悪意で言った訳じゃなかったが、この浜崎の言葉でユキは思いっきり不機嫌になったのがわかった。顔には一応まだ笑顔が張り付いてはいたが、引き攣ったような何かを我慢しているような雰囲気の筋肉の使い方に変わったのが明らかだった。
「浜崎君なんて生粋のヘビスモのくせに、雨宮ちゃんにそんな事言えないじゃーん。もちろんあたしもさ」ユキの様子に気付かない翠が上手に間に入ってユキを連れて行ってしまった。浜崎は静かに口笛を吹きながら、念入りにストレッチをし始めた。