三日月の天然水
のろのろと手をあげて受け取ろうとすると、その前に引っ込められた。男はペットボトルのキャップを開けて、両手で丁寧に私の口元にあてがった。タイミングを合わせて飲め、ということらしい。それはちょっと。
「あぶっ!」案の定、口から水があふれてしまった。やっぱり無茶だよ。
「わ、悪い!」謝りながら男は、片手で私の服をパタパタはたく。お兄さん、ちょっとちょっと。
「そこ、むね」私の言葉に、己の罪深き所業に気付いたのか「悪い!」と体を離して頭をぺこぺこ下げた。まあ、別に減るもんじゃないからいいんだけどさ。
私がのろのろと手を差し出すと、今度はペットボトルを渡してくれた。巨大なクレーンが動くようにのったりと私は水を飲んだ。おいしい。私の中の小人さん達も「わっほい!」と喜んだ。
呼吸も体もだいぶ落ち着いた。これなら歩いて帰れるだろう。ペットボトルを返そうとすると「いいよいいよ」と遠慮された。それもそうか。私が飲んだ後だもんな。
腰を上げようとすると男が手を貸してくれた。遠慮無く借りて、立ち上がった。
「大丈夫ですか?」
男がまだ心配そうな顔をしている。なんだか悪いことをした。
「ええ、いつものことですから大丈夫です」
なるべく、なんでもない風を装って言う。こんなにひどい発作が起きたのは久しぶりだ。
「ホントに大丈夫ですか?」
大丈夫じゃない、と言えば家まで送ってくれるのだろうか。きっとそうだろう。顔つきもよく見るとキリッとした柴犬に似ている。「こんばんワン」とか言わないだろうか。
思いついた時には遅く、思わず声を出して笑ってしまっていた。助けてもらった恩人に対して失礼だ。目の端で見ると案の定、困った表情をしている。
「ごめんなさい。ちょっと強い光を浴びるのと人に会うのがダメなだけなんです」
顔をあげて言うと、男は私の顔を見たまま止まってしまった。そんなに変なことを言っただろうか。変と言えば変だけれど、そこまでオーバーなリアクションをされるようなことでもない気がする。
「あの」もう一度、声をかけると「はい!」と男は動きだした。それも慌しく。
「え、光と人がダメなんですか! 危険じゃないですか、家まで送りますよ!」
いや、今のあなたの方が危険だ。妙にそわそわと髪をいじったり服装を整えたりしている。それに家では妹が待ってるので男連れで帰るのは色々とマズイ。
あ、やばい! 門限の三十分に間に合わないかもしれない。早く帰らないと。
「大丈夫です。この先は明るい所も人通りもありませんから」
知らない道で急に人とぶつかったから発作を起こしただけで、遠くから来る人とすれ違うだけならどうにかなる。
「それじゃあ、お気をつけて」
男の明らかに落ち込んだ表情に疑問を感じたけれど、解決している時間はない。私は男に頭を下げて、ゆっくり歩き出した。手を振って歩くと重みを感じた。そうだ、ペットボトル。
私は立ち止まった。お礼を言わねば。
「あの、お名前を教えてもらえませんか?」
「え」男は少し焦った様子だったけれど、仕事で慣れているのか呼吸を落ち着けてハキハキと名乗った。私は何度か口の中で反芻してその名前を覚えた。
「あなたの名前は?」男から聞かれた。私が答えると、口の中で何度かつぶやいているようで少し不気味だった。口の中で反芻するとああ見えるのか。今度から気をつけよう。
明かりのついた玄関を開けると妹が仁王立ちしていた。
「お姉ちゃん、三分ちこくー」
若い嫁をいびる姑のような口調で言ってきた。「ごめんごめん」と軽く謝りながら靴を脱いでいると、妹がペットボトルに目を止めた。
「水なんて珍しいね、自販機?」
なんと説明したものか。
『男の人とぶつかって発作が出たから、お姫様抱っこで運んでもらって、水を飲ませてもらった』
なんて説明をすれば家族全員大騒ぎになる。私だけがヤイヤイ言われるならともかく、きっとあの人にまで迷惑がかかるだろう。ここはひとつ。
「ナンパして買ってもらったの」
冗談で流してしまおう。
「え、お姉ちゃんが?」
妹は驚いた表情を見せたものの、すぐに「なーるほどね」と魔女が悪い企みを思いついたような顔になった。何か察したらしい。
「だから遅刻したんだ」
「そうよ」
軽く流しながら私はペットボトルの水を飲んだ。ぬるくなった水が生々しく口の中に広がると、不意に抱きとめられた時の温かさを思い出した。
今度出会った時は、違う意味で発作を起こすかもしれない。
でも、不思議とそれを怖いことだとは思わなかった。