三日月の天然水
LEDのような頼りない月明かりの下で私は散歩していた。夕立の残り香をほのかに感じる。遠くでカエルが物欲しそうに鳴いていた。
カエル君、残念ながら私は君の大好きな水をもう持ってないんだ。だいぶ前に枯れるほど出し尽くしてしまったからね。
こうして深夜にだけ散歩をするようになって三ヶ月になる。大好きな声優さんがやっているラジオに相談のメールを出したら「まず夜中とか人が少ない時間帯に出かけてみたらどうかな」と冗談めかした調子で答えが返ってきた。夜中に出かけるなんて、なんだかすごく悪いことをしているような気分になったけれど、お母さんに相談すると「女の子が夜中に」と渋ったものの「時間とルートをちゃんと守るならいいわよ」と最終的には許可が出た。
私の町は小さな町だから、夜になれば車道の赤信号は点滅したままになるし、裏道ともなれば街灯すら消える。家々の灯りも消されて、誰も起きていないと分かる時間。誰からも見られる事がないという確信が持てる時間。みんなが営みの灯りを絶やさないよう毎日がんばっている、その隙間で私は三十分の自由を楽しむ。
「夜中に出歩いて恐くないの? その、幽霊とか」
中学生の妹は最近オカルトにハマっているようでそんな不安を語った。でも幽霊より……ね、うん。私が答えを濁すと妹は「あー分かる分かる」と神妙な顔つきで男性アイドルの名を挙げた。
「かっこよすぎてやばいよね。あの美しさが怖い」
なんだそれ。私は笑った。妹も笑った。家族のことは好きだ。
だから、なるべく迷惑をかけないようにしたい。少なくともスーパーやコンビニにおつかいに行けるぐらいにはなりたい。田んぼの向こうにスーパーの看板が見える。ライトは消えていたけれど、私の記憶には夜の闇を吹き飛ばす強烈な光と、その光に安心感を覚えていた私自身が焼き付いていた。
いつになればあの世界に帰れるのだろう。こうして誰もいない夜道を歩いていれば辿りつけるのだろうか。外に出られるようになったのだから、少しはマシになった気はしている。でも。
散歩のルートは家を出て、裏道を通って町内をぐるっと半周するような感じだ。私にとっての最難関は途中にあるコンビニ。やけに明るいし、こんな遅い時間なのに騒いでる人たちが店の前にいる。そんなニワトリみたいに暴れてないで、さっさと家に帰ればいいのに。人のことは言えないけどさ。
頭ツンツンのキャラクターが『飛び出し注意』と叫んでいる看板を通りすぎると、道が不自然に明るくなる。コンビニは夜中でも明るいから防犯効果がある、なんて話があるけど嘘っぱちだと思う。
ほら、今日もあんな悪そうな人達がたくさんいる。きっとお店の光が眩しくて自分たちの姿が見えていないんだろう。そうでなきゃ、こんな静かな夜にあんな大きな声は出せやしない。しかも今日は特にうるさい。人数がいつもより多いせいだろうか。
ルートではコンビニ前を進む事になっているけれど、私はあんな人達にジロジロ見られながら歩ける自信はないし、万が一からまれでもしたら大変だ。「ヘルプミー!」と大きな声を出すにも心の準備というものがある。今は無理だ。
お母さん、ちょっとだけごめん。明日きちんと相談するから。
私は脇道へとそれた。コンビニを迂回して元のルートに戻れば問題なく帰れるはずだ。脇道といっても住宅地の真ん中だし、大丈夫だろう。
脇道は少し狭かったけれど、私一人で歩くには十分な幅があった。コンビニの強い光を見た後だったので真っ暗闇に見える。ゆっくりと息を吸って、ゆっくりと吐く。何度か繰り返すと目も慣れて、足元が見えた。
道なりに歩きながら見慣れない家々を眺める。どの家も明かりは消えていた。少し安心しながら角を曲がった。
「うおっと!」
「きゃ」人だ!
突然のショックに呼吸が止まる。息を吸えない。吐けない。足を動かしたいのに手が震える、目を閉じたいのに体が震えて動けない。私の中の小人さん達が一斉に操作レバーをめちゃくちゃに動かした。立っていられない。
崩れ落ちそうになる私を相手の人が「わ!」と支えてくれた。固い。男の人だ。「おっとっと」と間の抜けた声を出しながら両腕で私を引き寄せてくれた。どっしりと安定感のある支えに甘えて体の力を抜くと、呼吸が少しだけ出来た。
遠くなりそうになる意識を、かすかに動く唇を噛みしめてどうにかこらえた。こんなとこで気絶するわけにはいかない。
息を吸って吐く。吸って吐く。吸って吐く。ゆっくり吸って吐く。
情けない。自分で考えないと呼吸もできないなんて。こんな自分があの光の世界になんて戻れるわけがない。目の奥がジンと熱くなる。なによ、そんなとこだけ普通に動いたって仕方ないのよ。さっさと枯れてしまえばいいのに。
「あの、シャックリは深呼吸すると止まるそうですよ」
頭の上から男が声をかけてきた。そうか、私、抱きとめられてるのか。恥ずかしいなあ、もう。っていうかシャックリじゃないよ。
「あと水を飲むとか。あ、そうだ」
体がひっくり返って、ふわっと宙に浮いた気がした。否、浮いていた。男が両腕で私を抱き上げたのだ。
「ヒゥ」ちょっとまって! うまく声が出せない。体の自由はまだ効かない。
男の歩みに合わせて上下に揺れながら進んでいく。どこに連れていかれるんだろう。男の部屋だろうか。もしかして貞操の危機というやつかもしれない。そうしたら、その場で息を止めてこの世を去ろう。息を止めて自殺した人はいないそうだけれど、呼吸が出来ずに死んだ人間なら山ほどいるだろう。
静かに覚悟を決めていると、視界の隅に明るい光が見えた。もしかして。
「コ!」コンビニは嫌だ、そう言おうとしたけれど喋れない。少しだけ動くようになった手で男の服をつまんで引っ張った。
「大丈夫ですよ、コンビニまであと少しですから」
顔は見えなかったけれど、私は男の声が優しい事に気付いた。
違うんだって! 私は何度も服を引っ張る。ゆっくりと顔を左右に振った。
「ん? コンビニはダメですか?」
顔をのろのろと上下に振ると男は少し立ち止まって考えてから「わかりました」と私を地面におろした。塀に背中を預ける形で私は地面に座った。
男の顔が視界いっぱいに広がる。ちょっと近すぎる。男は小声で少し周りを気にしながら口を開いた。
「何か事情があるんですね。水はぼくが買ってきます。ちょっと待っててください」
男は光の方へと走り去っていった。神妙な顔つきが、冗談を言う時の妹にどこか似ていたけれど、多分こちらは冗談ではなく本気だろう。でも、嫌いじゃない顔だ。
光がうっすら届く中で、呼吸を少しずつ元に戻す。ゆっくりと呼吸をする度に体の中でどんちゃん騒ぎをしていた小人さん達が一人ずつ落ち着いて仕事に戻っていく。どうにか関節に力を入れて立ち上がろうとすると、足音が近づいてきた。
「あ、そのままで」
男がペットボトルを手に帰ってきた。よく見るとスーツ姿だ。帰宅途中のサラリーマンなのだろうか。それにしては帰宅時間が遅い気もする。
「自分で飲める?」ペットボトルを差し出されたけれど、そんなに早くは動けない。
カエル君、残念ながら私は君の大好きな水をもう持ってないんだ。だいぶ前に枯れるほど出し尽くしてしまったからね。
こうして深夜にだけ散歩をするようになって三ヶ月になる。大好きな声優さんがやっているラジオに相談のメールを出したら「まず夜中とか人が少ない時間帯に出かけてみたらどうかな」と冗談めかした調子で答えが返ってきた。夜中に出かけるなんて、なんだかすごく悪いことをしているような気分になったけれど、お母さんに相談すると「女の子が夜中に」と渋ったものの「時間とルートをちゃんと守るならいいわよ」と最終的には許可が出た。
私の町は小さな町だから、夜になれば車道の赤信号は点滅したままになるし、裏道ともなれば街灯すら消える。家々の灯りも消されて、誰も起きていないと分かる時間。誰からも見られる事がないという確信が持てる時間。みんなが営みの灯りを絶やさないよう毎日がんばっている、その隙間で私は三十分の自由を楽しむ。
「夜中に出歩いて恐くないの? その、幽霊とか」
中学生の妹は最近オカルトにハマっているようでそんな不安を語った。でも幽霊より……ね、うん。私が答えを濁すと妹は「あー分かる分かる」と神妙な顔つきで男性アイドルの名を挙げた。
「かっこよすぎてやばいよね。あの美しさが怖い」
なんだそれ。私は笑った。妹も笑った。家族のことは好きだ。
だから、なるべく迷惑をかけないようにしたい。少なくともスーパーやコンビニにおつかいに行けるぐらいにはなりたい。田んぼの向こうにスーパーの看板が見える。ライトは消えていたけれど、私の記憶には夜の闇を吹き飛ばす強烈な光と、その光に安心感を覚えていた私自身が焼き付いていた。
いつになればあの世界に帰れるのだろう。こうして誰もいない夜道を歩いていれば辿りつけるのだろうか。外に出られるようになったのだから、少しはマシになった気はしている。でも。
散歩のルートは家を出て、裏道を通って町内をぐるっと半周するような感じだ。私にとっての最難関は途中にあるコンビニ。やけに明るいし、こんな遅い時間なのに騒いでる人たちが店の前にいる。そんなニワトリみたいに暴れてないで、さっさと家に帰ればいいのに。人のことは言えないけどさ。
頭ツンツンのキャラクターが『飛び出し注意』と叫んでいる看板を通りすぎると、道が不自然に明るくなる。コンビニは夜中でも明るいから防犯効果がある、なんて話があるけど嘘っぱちだと思う。
ほら、今日もあんな悪そうな人達がたくさんいる。きっとお店の光が眩しくて自分たちの姿が見えていないんだろう。そうでなきゃ、こんな静かな夜にあんな大きな声は出せやしない。しかも今日は特にうるさい。人数がいつもより多いせいだろうか。
ルートではコンビニ前を進む事になっているけれど、私はあんな人達にジロジロ見られながら歩ける自信はないし、万が一からまれでもしたら大変だ。「ヘルプミー!」と大きな声を出すにも心の準備というものがある。今は無理だ。
お母さん、ちょっとだけごめん。明日きちんと相談するから。
私は脇道へとそれた。コンビニを迂回して元のルートに戻れば問題なく帰れるはずだ。脇道といっても住宅地の真ん中だし、大丈夫だろう。
脇道は少し狭かったけれど、私一人で歩くには十分な幅があった。コンビニの強い光を見た後だったので真っ暗闇に見える。ゆっくりと息を吸って、ゆっくりと吐く。何度か繰り返すと目も慣れて、足元が見えた。
道なりに歩きながら見慣れない家々を眺める。どの家も明かりは消えていた。少し安心しながら角を曲がった。
「うおっと!」
「きゃ」人だ!
突然のショックに呼吸が止まる。息を吸えない。吐けない。足を動かしたいのに手が震える、目を閉じたいのに体が震えて動けない。私の中の小人さん達が一斉に操作レバーをめちゃくちゃに動かした。立っていられない。
崩れ落ちそうになる私を相手の人が「わ!」と支えてくれた。固い。男の人だ。「おっとっと」と間の抜けた声を出しながら両腕で私を引き寄せてくれた。どっしりと安定感のある支えに甘えて体の力を抜くと、呼吸が少しだけ出来た。
遠くなりそうになる意識を、かすかに動く唇を噛みしめてどうにかこらえた。こんなとこで気絶するわけにはいかない。
息を吸って吐く。吸って吐く。吸って吐く。ゆっくり吸って吐く。
情けない。自分で考えないと呼吸もできないなんて。こんな自分があの光の世界になんて戻れるわけがない。目の奥がジンと熱くなる。なによ、そんなとこだけ普通に動いたって仕方ないのよ。さっさと枯れてしまえばいいのに。
「あの、シャックリは深呼吸すると止まるそうですよ」
頭の上から男が声をかけてきた。そうか、私、抱きとめられてるのか。恥ずかしいなあ、もう。っていうかシャックリじゃないよ。
「あと水を飲むとか。あ、そうだ」
体がひっくり返って、ふわっと宙に浮いた気がした。否、浮いていた。男が両腕で私を抱き上げたのだ。
「ヒゥ」ちょっとまって! うまく声が出せない。体の自由はまだ効かない。
男の歩みに合わせて上下に揺れながら進んでいく。どこに連れていかれるんだろう。男の部屋だろうか。もしかして貞操の危機というやつかもしれない。そうしたら、その場で息を止めてこの世を去ろう。息を止めて自殺した人はいないそうだけれど、呼吸が出来ずに死んだ人間なら山ほどいるだろう。
静かに覚悟を決めていると、視界の隅に明るい光が見えた。もしかして。
「コ!」コンビニは嫌だ、そう言おうとしたけれど喋れない。少しだけ動くようになった手で男の服をつまんで引っ張った。
「大丈夫ですよ、コンビニまであと少しですから」
顔は見えなかったけれど、私は男の声が優しい事に気付いた。
違うんだって! 私は何度も服を引っ張る。ゆっくりと顔を左右に振った。
「ん? コンビニはダメですか?」
顔をのろのろと上下に振ると男は少し立ち止まって考えてから「わかりました」と私を地面におろした。塀に背中を預ける形で私は地面に座った。
男の顔が視界いっぱいに広がる。ちょっと近すぎる。男は小声で少し周りを気にしながら口を開いた。
「何か事情があるんですね。水はぼくが買ってきます。ちょっと待っててください」
男は光の方へと走り去っていった。神妙な顔つきが、冗談を言う時の妹にどこか似ていたけれど、多分こちらは冗談ではなく本気だろう。でも、嫌いじゃない顔だ。
光がうっすら届く中で、呼吸を少しずつ元に戻す。ゆっくりと呼吸をする度に体の中でどんちゃん騒ぎをしていた小人さん達が一人ずつ落ち着いて仕事に戻っていく。どうにか関節に力を入れて立ち上がろうとすると、足音が近づいてきた。
「あ、そのままで」
男がペットボトルを手に帰ってきた。よく見るとスーツ姿だ。帰宅途中のサラリーマンなのだろうか。それにしては帰宅時間が遅い気もする。
「自分で飲める?」ペットボトルを差し出されたけれど、そんなに早くは動けない。